鏡花読書~みさごの鮨
『みさごの鮨』(大正十二年一月)
青空文庫
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金沢から南西に20kmほど下った石川県能美市には『海の鳴る時』などの作品に由縁のある辰の口温泉があるのだが、そこからさらに同じくらい離れた加賀市にあるのが『みさごの鮨』の舞台となった山代温泉で、鏡花はなぜこんなに温泉好きなのかと呆れるほど、またしても温泉が舞台である。
鏡花にしては平易な文章で書かれているのだが、温泉地の情景描写が具体的に想い描きにくくて、やはり簡単には読ませてくれない。
作中に描かれた金沢衛戍病院山代分院は温泉地の南の外れにある萬松園の西隣りにあったそうで、作中で「絵はがきがある。御覧なさい」と鏡花が薦めているほどに立派な建造物だったようだ。その「絵はがき」は「独立行政法人 国立病院機構 金沢医療センター 絵と写真で見る150年の歩み」というパンフレットの、Web上にあるpdfファイルで閲覧できる。
〇
榊三吉という仏文学の教授が山代温泉に滞在中、小春という若い芸妓のことを知る。小春には治兵衛という渾名の、身請けができるほど裕福でもない、嫉妬深い客が付いていて、彼女に全財産を注ぎこんだせいでやけになり、しつこく心中話を持ちかけている。男の言いなりになるのが女の筋だと信じこまされているお人好しの小春に対して榊は、そんな自堕落な男の話に乗る必要はないと教え諭す。
無事に小春を説得し、若い娘の命を救ったと安心した榊が次の目的地に発ったあとの温泉地では、とんでもない事件が勃発した……。
詳しい内容については、なろう内に秋月しろうさんの現代語訳があるので、そちらをご参照ください。
小春と治兵衛という名は、近松門左衛門の『心中天の網島』から採られていて、これは作中人物たちも認識している。
治兵衛は大坂天満の紙屋の主人で、おさんという貞節な妻がありながら曾根崎新地の遊女・小春との仲が深まり心中に至るというのが『心中天の網島』の物語である。『みさごの鮨』の治兵衛は紙類も扱う雑貨屋を営んでいるので、近松の本歌取りであることはあからさまなのだが、Web上で読める、吉田遼人「泉鏡花『みさごの鮨』の射程」について」という論文を読むと、榊三吉の「三」は『心中天の網島』の「おさん」に通じるという指摘があって、鏡花の見立ての工夫が想像以上に意識的であることに驚かされる。
そんな擬古典ぶった物語が、終幕に至って状況一変。
榊に小春と治兵衛の関係を教えた、その勇猛果敢は板額御前に喩えるのが適切ではあるが、物語上は脇役だと思わされていたお光という女中の悲恋物語に化けてしまう。お光の恋の相手は榊その人だった。
じつは『みさごの鮨』を読みながら、がさつな田舎娘として書かれるお光が榊に向ける好意があまりにもせつなげに描かれているから、結末を半ば予想しながら読んでいて、最後はやっぱりそうだったのかと、目をうるませながら巻を閉じることになった。技巧的にも優れ、清々しい涙を誘う傑作だと思った。
ところが、である。
先述の「泉鏡花『みさごの鮨』の射程」について」という論文では、「随分と読み悪い」うえに「現代画の中へ古い錦絵が飛び込んで来たやう」な時代錯誤の作品だという、西村濤蔭による発表当時の酷評が挙げられている。まあ、それなりに長生きをした巨匠の近作というものは、晩年期には酷評されることが世の習いではあるのだけれど。
しかしそれだけではなく、この論文そのものも、西村の批評に疑問を呈する立場を示しながらも、本作がまるで破綻をしているかのように見えるという前提から、作品の擁護に着手するという段取りを踏んでいる。
――いえいえ、破綻も何も、これほどまで用意周到に伏線を散りばめて、狙い通りの結末を迎える作品に、なぜ「支離滅裂な印象を抱」くことを起点に論を進めるのか、自分にはよく理解できなかった。古い時代の常識としては、最初に提示された主題を真っ直ぐに突き詰めることが文学であり、語りの小細工でどんでん返しを目論むようなものは邪道であるという認識があって、自分はその常識に欠けているのだろうか、とまで考えずにはいられない(古い時代といっても、論文は2013年のものである)。
たしかに、どんでんがえしなるものは、ジャンルに細分化されて先鋭化したミステリー小説などが読者を驚かせることを追求した末に生み出した、娯楽小説に特有のものだったのかもしれない。けれども、たとえば叙述や構成のトリックを駆使しつつ現代人の複雑な心理を描いたアントニー・バークリーの『トライアル・アンド・エラー(試行錯誤)』(1931)だとか、ミステリー小説の構成を取りつつ卑近な感情生活に大きなテーマを引き寄せたグレアム・グリーンの『情事の終り』(1951)だとか、シリアスなテーマとエンタメ的な技巧の混交が企てられたのもずいぶん以前の話で、そういった作品を当たり前に通過してきた読者としては、『みさごの鮨』が非常に巧みに構成された、しかもそれが文学作品であることを損なわない秀作だと受け入れることになんの抵抗もない。「現代画の中へ古い錦絵が飛び込んで来たやう」どころではなくて、「古い錦絵の中へ現代美術が飛び込んで来たやう」で、新鮮味を感じるばかりである。
鏡花としては、このような(時には意味不明なほどに飛躍した)意外な結末で作品にひねりを加えるのは珍しいことではなく、また独善的に奇を衒ったことでもなかった。おそらくは、
▶ものには必ず対がある。◀(『妖魔の辻占』四)
という俳諧的な発想から、対句を基本としたレトリックが編みだされ、同じ考えを作品構成にまで敷衍したところから、奇抜な結末が必然となったのだろう。
『取舵』(明27)、『風流蝶花形』(明30)、『鶯花径』(明31)、『鷺の灯』(明36)、『爪びき』(明44)、『五大力』(大2)、『懸香』(大4)、『白金之絵図』(大5)といった、トリッキーな叙述で読者を煙に巻きながら、最後のどんでん返しで真に主題とみなすべき内容を明らかにする作品をずっと書いていたわけで、『みさごの鮨』の結末がとりたてて木に竹を接いだ印象を与えるわけではない。
そういえば上に挙げた諸作は、読めば文句なしに面白いのだが、名作として評価されることが希なものばかりである。一部の鏡花作品や鏡花自身は二次創作物などに取り入れられて再評価が進んでいるかのようにも思えたりはするのだが、いまだに多くの傑作は古い文学評価基準やエンタテインメント軽視の姿勢によって価値を貶められているのではないか。もったいないと思う。
念のためにつけ加えると、「泉鏡花『みさごの鮨』の射程」について」という論文については、『みさごの鮨』に破綻を感じるという感覚についての違和感を表するために挙げさせていただいただけで、論旨自体は共鳴できる、また気づかされることも多い論文でした。特に後半の、鏡花が作品に埋めこんだ浄土真宗への反感についての論述は、『旅僧』や『梟物語』を読んで私がぼんやりと感じたものが明確に立証されていて、目の覚める思いでした。




