鏡花読書~彩色人情本
『彩色人情本』(大正十年一月)
同時期に発表された『毘首羯摩』と同じく、前半のみが書かれて中絶した作品。だが、こちらは未完なのに結末がわかっている。大正十三年五月に発表された『眉かくしの霊』に、『彩色人情本』の設定や筋書きが同じ物語とその結末までが、すべて含まれているからである(『彩色人情本』に描かれた猟師の家を伏線だととらえれば、『眉かくしの霊』と同じ結末が考えられていたのだと想像できる)。
『眉かくしの霊』でいえば、五章からほぼ結末まで、宿の料理番によって語られる「変な姦通事件」が『彩色人情本』の内容にあたる。
話の内容は下手にまとめるよりも、『眉かくしの霊』 https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/1174_20553.html (青空文庫)を読んでいただいたほうが早い。違いといえば、『彩色人情本』では文筆業を営んでいるらしき主人公、槇礼之助が、『眉かくしの霊』では匿名の絵師ということになっている程度である。
『彩色人情本』が、(全集でいえば)完成した前半だけで189ページの分量があるのに対して、『眉かくしの霊』は全体で51ページしかない。そのうち「変な姦通事件」に該当するのは、わずか13ページ弱である。同じ話が『眉かくしの霊』では二十分の一くらいに圧縮されたということになる。
そうだと知って察せられるとおり、『彩色人情本』はずいぶん間延びしている。文章の密度はいつもの鏡花のそれなのだが、話がなかなか進まない。いや、話の進み方はむしろ一般的な小説に近いのだけれど、文章の密度がそれにそぐわない。もっとテキパキと読みたい話なんだがなと、読んでいて嘆息する。
勝手な想像ではあるが、鏡花にしても、書いている途中にペース配分を誤ったことに気づいて、続ける気が失せてしまったのではないか。
とはいえ、面白いところがないわけではない。
たとえば槇の妻である梢の芸妓時代の同輩たちに、胸算、鱓、おぱる、元禄、めりけんの狸などとおかしな渾名が付いていて、それぞれが渾名にふさわしい活躍をするあたり。おぱるは、オパールの指輪をしているからで、宝石の名前が付いたキャラが登場する某アイドルや吹奏楽部のアニメをつい思い出してしまうのだが、まさにそれとよく似た、わいわいがやがやのガールズ・コメディ的な雰囲気で盛り上がる。
胸算(お光)の現在の抱え主であるお嬢様(升子)がヒステリーを起こす描写は、主人公の妻(梢)が窮地に陥る場面なのに、あまりにもヒステリー状態の言動がリアルで逆に笑いがこみ上げてくる。筋の上ではとりわけ重要だというわけではないけれど、ここが本作の最高潮かも。
〇
本作の後半の舞台は長野県木曽郡上松町という所で(『眉かくしの霊』 の舞台は長野県塩尻市奈良井宿の温泉だからここも違うのだが)、近隣には名勝「寝覚の床」があって、本文中でも何度か触れられている。
ところで、鏡花全集を読んでいると、寝なんとかの里だとか床だとかいう地名がやたらと頻出することに気づく。
まとめてみると、
・「寝物語の里」(美濃と近江の国境)
・「寝覚の里」(名古屋市緑区名和町のはずれの名古屋市と接するところ)
・「寝覚の床」(長野県木曽郡上松)
――の三ヶ所であって、それぞれの立地や伝承にからめた修辞が作中で使われるのだが、特に「寝物語の里」が登場する例は十編を下らないかもしれない。なぜ鏡花はこんなに、寝なんとかの里だとか床だとかいう地名が好きなのだろうか。
読者としては何がどこにあったのか混乱の種なのだが、困ったことに『尼ヶ紅』(明42)では、「美濃と近江の国境、寝覚の里と言ったような」などと、「寝覚の里」と「寝物語の里」を取り違えた記述もあって、鏡花自身も混乱していたりする。




