鏡花読書~毘首羯摩
『毘首羯摩』(大正十年一月)
「国粋」という雑誌に「長編連載」として連載されていたが、連載十回で前篇終了ということになり、そのまま後篇が書かれることはなかった作品。
筋書きだけで言えば、少女マンガにでもありそうだというか(少女マンガというものの質が高すぎるということでもあるのだけれど)……。
――栃木の塩原温泉に、菊山三吉という若い画家が宿泊する。彼の目的は、若くして亡くなった同門の女流画家、梨影の名誉を守ること。温泉では、かつてこの地を訪ねた梨影が掘らせた湯に梨影足洗湯と名づけようとしている。「足洗湯」などとは梨影の凜としたイメージにそぐわない。菊山は宿の主人と話し合い、梨影の湯とするように説得する。
そんな菊山の姿をこっそりとうかがい、思いを馳せているかのような挙動を見せる、同宿の美女がいた。
温泉郷を散策中の菊山は、ちらりと見かけた美女の姿に梨影の面影を重ねる。彼女の後を追って迷い込んだ寺の堂に、それほど古くはない画家や文人たちの書画が陳列されていることに菊山は驚く。人の気配を感じた菊山が次の間の襖を開くと、件の美女が老僧と老尼ににじり寄られている。
どうやら僧たちは塩原温泉を訪れた有名人の書画のコレクターで、彼女にも一筆をせがんでいるようだ。彼らの要求を一蹴して美女と共に堂を去った菊山は、彼女が姉の形見の着物を着た梨影の妹、姫池藤子であることを知るのだった。――
……と、こんな軽いラブコメのような出会いを描いた話が、持って回った筆致で153ページにわたって語られているのだから、ちょっとがっかりする。後篇が書かれたとしても秀作にまで持ち直せたかどうか。
題名の「毘首羯摩」は上記の堂のコレクション中にある画の作者の名前だとされているのだが、毘首羯摩は人の名ではなく工芸の守り神なのだから、画工文人の代表として名を借りたのかもしれない。
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鏡花が塩原温泉を訪ねたという記録は、今のところ見つかっていない(?)ようなのだが、細部描写の克明さからすれば近い時期に小旅行をしたに違いないと思える(のちの『開扉一妖帖』(昭8)にも、塩原のことをよく知っているような記述が見られる)。
塩原温泉は尾崎紅葉の『金色夜叉』の舞台の一つであり、髙村光太郎、国木田独歩、谷崎潤一郎、夏目漱石、与謝野晶子、幸田露伴など、多くの文人が足跡を残している地でもあるので、どこかに展示されていた彼らの揮毫を見て、こんな話を思いついたのかもしれない。
また、登場人物の設定は、『友禅火鉢』(大7)(ここでは女流画家の名は梨映)を引き継いでいる。梨影・梨映のモデルとしては池田蕉園が想い浮かぶのだが、作中(「まよわせ堂」二)で画家の主人公がなぜか小説家をライバル視する記述があり、文壇の師弟関係を重ねる意図もあったのでは、という想像もできる。
読みどころといえば、冒頭の、紀行文かと見せかけて、姫池藤子の入浴シーンを湯から聞こえてくる声で描いてみせる、凝った描写だろうか。アヒルを狂言回しに使う工夫や、個室に戻った藤子が奉書紙に落書きをする場面の、意識の流れめいた叙述も面白い。
注目すべきは後半で菊山が足を踏み入れる湯神祠という堂が、柳田國男や佐々木喜善が採録した「迷い家」の伝承になぞらえられていることなのだけれど、柳田や佐々木の記述を丸写ししたかのようで、これもまた、それほど効果を上げているわけではない。
停滞期とされる時期を象徴するかのような中絶作だと言ってもいいと思う。
(附記:吉田昌志『泉鏡花年譜』によると、連載中絶の理由は「『難しすぎる』との印象をもった国粋出版社社長の意向」によるという、当時の証言があるのだそうだ。)
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上で挙げたメインストーリーの裏では、塩原温泉を文人の訪れる里として売り込もうと目論んだ木谷という実業家や、菊山の画に絡めた策略で藤子に接近しようとする金満家、来栖権吉郎、そして湯神祠の老僧老尼など、美術品を投機や欲望充足のために求める人々の醜さ、滑稽さが描かれて、それが『毘首羯摩』における恋愛以外の重要な要素になっているように思える。
昨夜、『ロスト・レオナルド ~史上最高額で落札された絵画の謎~』(2021)というドキュメンタリー映画がソニーピクチャーズのYouTubeチャンネルで無料公開されているのをたまたま見たのだけれど、そこで描かれた、新発見されたレオナルド・ダ・ヴィンチ作「サルバトール・ムンディ」をめぐる投機合戦が、読んだばかりの『毘首羯摩』と重なった。動くお金の規模こそ違えど、いつの時代にも同じような欲望があり、人はそれに憤りを感じていたんだな、と思わされる。




