一周年
ここにアップを始めて、つまり泉鏡花作品を読みはじめて、ほぼ一年が経ちました。
文学の研究とやらの経験があるわけでもなく、ただの読者にすぎないのだけれど、泉鏡花というのはずっと気になっていた存在で、九十年代に刊行された国書刊行会の「鏡花コレクション」と、ちくま文庫の「泉鏡花集成」は、出るたびに買って読んではいましたが、いわゆる流し読みで、書いてあることの半分もわかっているのかどうか、雰囲気がわかればまあいいか、といったふうでした。そして、右から左に忘れてしまいました。
それでも、そのうちにちゃんと読み返したいという気持ちはあって、特に『幻の絵馬』という作品は、読みながらボロボロ泣いてしまうほどだったことだけは覚えていて、ひさしぶりに読み返してみたら、やはり感動的ではあるのだけれど、わからないところが多い。
ヒロインの錦木和歌子のセリフにこんなものがあって、
「生意氣お云ひな、三途河の婆さんの、其の孫のまた使ひぢやないか、難有くお思ひ…………彦なら結構、曾孫で澤山、眞個は細螺だあね。――おいで、彈いて上げるから、」
……これは、何を言っているのか? 今のことばに置き換えられるものなのか? と、辞書を引き引き解釈してみると、子どもの子どもの子どもの子どものことを玄孫というのだとか、細螺という貝の殻はおはじき遊びに使われていたたとか、そういうキーがあればパズルとして論理的に読み解ける、ただの調子よく並べたことばではない、ということがわかって驚きました(いや、今から考えると、当たり前のことなんですが)。
「生意気言うでないよ、あの世のあがり口の奪衣婆の孫みたいな孫六のお使いだから彦六と言ったまで、ありがたく思いな、「ひこ」呼びで十分、さながら奪衣婆の孫の子だから曾孫がお似合い、ホントなら曾孫・玄孫ときてお前は細螺だあね。来てみろ、細螺はじきにして弾いてやるから」
と現代語に置き換えてみて、これは面白いと思ってコツコツと前後にパズルを広げ解いていったのが「泉鏡花『幻の絵馬』 現代語訳」と「なぞとき『幻の絵馬』」で、その作業中に「日本近代文学大系」や「日本古典文学大系 明治編」で『註文帳』、『辰巳巷談』、『琵琶伝』の注釈を読んでいると、さらなるキーを手に入れるコツを見つけた気がして、やってるとやめられなくなってしまいました。
文学的感興といったものを差し引いて言えば、机上でプレイする究極の脱出ゲームのようなものです。
もう一つ、直前に読んだエルンスト・カントーロヴィチの『皇帝フリードリヒ二世』という書物があって、これは実証よりもインスピレーションが先んじるという、従来の、そして今の学問的方法でも許されないような発想を力業でねじ伏せながら押し通す姿勢に感動させられるのですが、研究者ではなく個人が読書をする面白さというのは、こういうことなのではないかと思ったことも、個人訳および解釈の動機の一つになったように感じています。
そのうちに『歌行燈』をきちんと読んでみたいという念願も、「泉鏡花『歌行燈』 現代語訳」をアップしたことで一区切りついた気がして、次に何をすればいいのか。とはいってもまだまだ、鏡花作品中の四分の一ほどが視界に入った程度で、慣れはしたけれどあいかわらず難しい。まだまだ先は長い……途方に暮れてしまいます。