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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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99 見せ掛けと月光と、

「名乗ってませんでしたよね…? 私はハリエットです。フラーケ教会で務めを果たしています。えっと、ずっと聞きたかったんです。煙草って美味しいですか? 同室の子が吸っていて、私は吸ったことなくて。いつもにおいが好きじゃなかったんですけど、今日は良い匂いに感じます」


一切のつかえもなく喋りはじめた女の横からは沈黙だけが生まれた。煙草をくゆらせる男は押し黙ったまま、その無垢な感覚を悲愴していた。


女は舞い上がっている。嬉しい、喜ばしい、役にたっているという感情が、天秤に乗せた己の命より重いと遥かに重要だと笑顔で受け入れ、瞳を輝かせている。とろけるような瞳がうつす世界はいま初めて色がついているのだろう。くびきを外された輓獣が初めて草生を自由に歩くとき、彼らは牽引していた物の重さを忘れる。どれだけ首を絞めつけられ、呼吸を妨げられていたとしても。


ひっきりなしに喋る女のための相槌は打たなかった。それでも構わないのだろう。独りよがりな女は男自身を見てはいないのだから。


音もなく灰が落ちて、記憶の中の声が聞こえた。


『おおよそ人は組織に属しています。教会に勤めている教職者は、教会という表題を得る。君の読んでる本の"見出し"のようなものは、私にも貴方にも付いている。例えば私は』

『巡礼神父のトリアスさん』

『そうです。医生のディオスくん』


長身痩躯のギンケイ族は足を組んでいるだけで絵になる。画家であれば筆をとっていただろうし、詩人であれば旅行鞄から書物を取り出す所作で一篇紡ぎ出すだろう。

国中を巡礼しているというのに仕立ての良い服を着ている男は、どこかの名家の出なのだろう。詳しく聞いたことはなかった。奮発して買った大きく居心地のいい長椅子も男が座れば窮屈に見えた。長い指が耳の裏を通り、川面のような髪を整える。


男はいつも同じ時期に南方から渡来して、再び渡去していく。街に滞在する短い期間だけ羽根を休めにやってくる渡り鳥、それがディオスにとってのトリアスだった。


『この本、お土産です。アクエレイルには及びませんが、シュナフに素敵な蔵書の貸本屋がありましてね。借りてもいないから買い取ってもいいと。はい、ディオスくんでも楽しめる絵だけの本です』

『馬鹿にしています…?……あぁ、植物図ですね。ん……』

『やっぱり気に入ってくれましたね』

『ありがとうございます……でもこれは何の駄賃ですか? これから何か言いにくい事を私に言うための詫び?』

『私の顔色を窺っていますね。だから少し緊張しているのですね…』


顔の前で両手を合わせ、男は立ち上がった。一人掛けの椅子に深く腰掛けていたディオスの前に影ができる。


『先程の続きです。個人と個人のあいだでおこなわれる社会的比較についてお話ししましょう』

長い髪が植物図を開く手に枝垂れかかった。

『人は他者の目に見られることによって自己を把握します。教会に勤める仲間、居住を同じくする相手、同じものを信仰する相手、同じ文化を共有する相手。様々な目に投射された形が反射して、そうして自分を知っていく。私の言葉に人々が耳を傾けるのは、私が教会の服を着て、枠組みの中に所属している者だと安堵を与えるからです。貴方もまた医疾部という集合社会の中で生きている。私たちが自分自身を知るためには他人が必要なのです。他者とかかわりあうことが重要な役割を果たしていく。でもディオスくんはそうした行いを忌避して、ずっと一人でいましたね』


『ひとり?』と笑うと、トリアスも良い笑顔で頷いた。


『私がひとり? この紙の束が見えないのですか? これだけ仕事を任されているのにどうして一人なのですか』

『それは貴方の仕事ではなく、代わりにやっているという事はわかります。忙しいから手伝ってくれと言われたのでしょうか。それとも君しか頼れる相手がいないと囁かれましたか?』

『……いいえ、両方です』

『へぇ、好きこのんで請け負ったと? どうしてそんな顔をするのですか』


笑顔が近づく。思わず視線を逸らしてしまった。舌の置き場がわからなくなって歯の裏をなぞって、唾液の潤いをからめる。


(突然何を言い出す? たまに帰って来たと思えばどうして人の仕事を追及するのだろう。これだから気楽な教職者は良い……これだから………)


頭の中の悪態は決して声には出ない。


『貴方はよく職場の話をしてくださいますね。人をあまねく救うという共通の目的をもった者達が肩を並べ、掟や規則のなかで集団として行動する。貴方はその中で努力し、いつも沢山のものを犠牲にする。立派だと思っています。でも、"でも"と、言わざるを得ません。貴方は自分で見ただけの話、人から聞いた話を自分の身に起きたことのように話している』

『何を? そんな馬鹿なことするわけがないでしょう』

『では貴方の話を聞かせてください。星空を見つめるような酩酊を瞳に乗せた貴方を見せてください。人の役に立てて嬉しい、必要とされているのが嬉しい、理力に頼らない薬をもっと広めて簡単に手に入るようにしたい。いつも話してくれますね。夢を見続ける旅人はどこへ行ってしまったのですか』

『私はここにいます』

『教えてください、私がいない間にあったことすべて』

『なに…?』


彼の言葉は一種の暴力だった。






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