97 医生と月光と、
眉を下げた男が、爪先をなかばまで食い込ませながら必死に食いしばっていた。
手のひらの激痛を誤魔化すためにわざと二の腕を痛めつけて紛らわせようとしても、にじむ汗の方がよっぽど正直に頬を伝った。
木の根に足をとられ森で転倒した男は、不運にも茂みの中に顔から突っ込んだ。顔面を守ろうと突き出した手を枝が貫き、残酷にも彼の一部となってしまった。
同職の相棒に肩を抱かれ、なんとか野営地まで戻ってきた男は助祭の言いつけ通りに篝火のそばにいた修道女に声を掛けた。修道女とそばにいた男、そして連絡を聞いて駆け付けた助祭がいうには、まずは枝と細かく刺さった木片を引き抜かなくては治癒はできないとのことだった。修道女は息を飲んで一歩下がってしまった。
代わりに前に出た兎耳の男が、枝を抜きとる作業にとりかかった。覚悟はしていたが地獄のような苦しみが襲う。それでも男は呻くことはなかった。それどころか「手を、煩わせてしまって、申し訳、ありません……」と、痛みに喘ぎながらも丁寧にのたまった。
こういった自分を過剰に律する自虐的な価値観は国中に蔓延っている。特に教会は顕著で美徳とすら捉えている。むしろこんな時には痛いと言って悪態をついてくれる方がよっぽどいいと兎耳の男は眉間に皺を寄せたが今言っても仕方がないので黙っていた。
木片を取り除いていると男はまた前のめりになった。二回目の謝罪を口にしようしているのだと察した助祭が首根っこを掴み上げ、頭上で叫んだ。
「いい加減になさい! 怪我をして謝る馬鹿がいますか! 大人しく息を整える! 痩せ我慢は必要ない!」
「ひぃ、助祭、今日は何だかとっても積極果敢でいらっしゃいますね…! あぁ、そんなに一気に抜かないでくれますか!?!」
最後に傷口を確かめて頷くと、兎耳は腰の革袋から小さな硝子瓶を取り出した。紫色の粘度の高い液体を見て、対面から上擦った声があがる。
「な、なんですかその液体は……まさかそれを塗るなんていいませんよね?! や、やめてくださいよ! 理術で治していただけると聞いていたから私は…」
「……聞いていたから? 最後まで言ってくれよ。……まぁいいや、助祭。この程度の傷なら理術を使う必要はない」
「これでか。そうか私は医には詳しくないので一任する」
「え、助祭!」
助祭の決定にさえ異を唱えようとする男は腹いせのように唇をつきだしている。その時点で感じていた違和感が、最悪な予測を連れてきた。
「あんた……理力を無償で奉仕されるものだと思ってないか? 理力はな、見た目じゃ無尽蔵に見えるが、勝手にわきあがってくるもんじゃない。術者の生命力が源なんだよ。わかるか? 命だぞ。こんな、塗布して包帯を巻いておけば数日で塞がる傷にわざわざ自分の命をかけろっていうのか?」
「はぁ?! で、でも……そんな色の薬みたこともありませんし! 申し訳ないですが毒ではない証拠がないことには…!」
「毒だって…?」
篝火を半身に受ける男の顔に、影より濃い怒気が乗った。
怪我人の対座で冷静に治療をおこなっていた男はとうとう手を止める。その左右異なる色の耳は聳え立っていた。施術に見入っていたハリエットは話を聞いていなかったが、顔を上げると剣呑な雰囲気が漂っていることだけは感じ取った。
男はぎりっと音が聴こえるほど歯噛みしたあと、それでも落ち着いた声を絞りだした。献身に対し、他者から屈辱的な評価を得た彼はそれでもゆっくりと一貫した速度で語り掛けた。
「……これは治癒を促す薬だ。毒じゃない。毒なわけがない。いいか、俺は医生で、大聖堂で疾病研究をしている」
事実を羅列しながら、彼は一度区切った。基本的に人は好意には好意を返し、悪意には悪意を返す。普遍的な二極の秤のうえの感情で、何かを「好く」か「嫌う」かを常に判断している。男は自身の作成した薬を毒だといわれた瞬間、周辺一帯を焼け野原にするほどの熱が体からわいたのを感じた。轟轟と燃える篝火が決意を裁許するように薪の中の水分を爆発させる。飛散した火の粉が皮肉に笑う頬のそばを撫でるように落ちていく。怪我人は熱さを払いながら暴れたが、手は決して放してやらなかった。
「あんたが専門的信頼性を明示しろというのであれば、俺を連れてきた龍下やシモン司祭に言ってくれ。それでも足りないなら、元来の俺の受け持つ"役割"に戻れるように龍下にかけあわなきゃならない。あぁ、あぁ、お前のせいで龍下はさぞ心を痛めるだろうな」
「どうして龍下がでてくるんですか! な、な、なにもそこまで言ってないですよ! 話聞いてますか!? 私はただ馴染みのない薬を使われるくらいなら、ここにいる帯持ちの方に治して欲しいというだけですよ!」
「理術も薬もどっちも同じ治療だろうが。助祭はあんたらが負傷した場合の救護として俺とこの女を指定した。だけど治療法までは指定してたか? してないな。俺がこうして厚顔無恥なあんたの手から枝を抜いて、甲斐甲斐しく細かい木片も何もかも抜いてやったのは何も俺が使いっぱしりの雑用に呼ばれたからじゃねえ。例えあんたが自分からわざと転んで怪我をこさえたとしても、治そうとしてる歴とした医生に向かって毒だと!? テメェ!」
火の粉が飛び散る。驚いたのは兎耳以外の全員だった。噴火した男に続き、助祭も烈火の如くほとばしった。
助祭は男の耳を引っ張りあげると、罵詈雑言の限りを叩きつけて泣きごとをいう男を引っ張っていってしまった。宛先はわからないが医療班の天幕の方向ではないことは確かだ。同じ職位の連れの男は戸惑っていたところを見るに、故意で転んだ男の協力者ではないのだろう。どうしたものかと迷いつつ、とりあえず助祭を追っていった。
助祭の発する多種多様な罵倒がだんだん聞こえなくなると、ハリエットは思わず治療道具を片付ける男に質問をした。
「……治療は途中だったはず、ですよね…? え…?」




