96 無茶苦茶な男と月光と、
炎をぼんやり見つめていたハリエットは肩を叩かれて振り向いた。男が指先と顎だけでいう、ちょっと左に寄れと。
篝火の周囲には腰掛ける為に森から拾ってきた手頃な倒木が等間隔に置かれている。男はわざわざ場所を移し、同じ倒木に腰かけようというのだ。抗議か拒絶か迷っているうちに大きい尻が降ってくる。為す術もなく左に寄せられる。
おびただしく揺らめく炎の奥に人の立居でもあったのならば気も紛れた。男は隣に座ってきたにも関わらず、指先に挟んだ煙草を動かす以外に何もするつもりがないようだった。吐きだす煙を吸い込まぬように息を止めているとハリエットのこめかみが激しく打った。
沈黙は心地よいものだったはず。けれど今、沈黙は自分の形を浮きだたせて炙ってくる装置だった。ハリエットは耐え切れず、いつもはしない余計な質問で口火を切った。
「シ、シモン司祭は、いらっ、いらっしゃらないのですか……私などが待機せずとも、あの方がいらっしゃれば事足りると思います………」
顔を背けている。後頭部に男の視線があたった、ような気がする。
「そりゃな。司祭がいればあんたは必要ない。あんた以外にも治癒が使える者はいるさ。それとも本当に呼ばれた意味がわからないのか? 帯持ちがめずらしいからって特別扱いされてるとでも思ってんなら笑える」
弾かれたように立ち上がったハリエットに気づき、頬杖をついていた男は立ちはだかりはしなかったが(打てば響く女だ)と無表情で笑っていた。組んだ長い脚を錨のように前にだすと、女の唇はあからさまに曲がった。都合のいいことに倒木の根は女を囲んでいたから、逃げるにしても男の前を横切るしかない。自分で選んだ倒木だろうに、詰めが甘い。
「あんた裸になってみろ」
「は…? は?!」
「どもりやがって面倒くせえ。おおかた黙ったまま人避けて過ごしてりゃどうにかなると思ってんだろ。褥の上なら多少の恥じらいはあってもいいが、ツラも見せねえ、目も合わせねえ、声も出さないとなっちゃ、一夜で潰してくるようなどぎつい奴にしか相手にされねえぞ。最初は男が苦手かと思ったが全般だめなんだろ。おまけに思考が馬鹿だときた。もっとここ使って喋れ」
親指が額を二度突く。その動きをおそろしいほどゆっくりと目で捉えていた。灰を落とす指の動きも、癖のある髪も、罵倒の合間にひょこりと揺れるうさぎ耳も、何もかも気持ちを逆立てる。
「裸体でも見せりゃあ免疫もつく。安心しろよ、手をだすほど難儀してねえ」
突然、男がハリエットを見て笑い出した。自分の言った言葉の面白さに今更気づいたかのように。ハリエットは思わず頬を張ってやろうかと思った。そういった暴力を受けたことはあるが、自分からしようと思ったことはなかった。
人には持ってまわった価値がある。ハリエットは自分の価値は誰よりも低いものだと捉えていた。橋の下で生まれた孤児。教会に入って屋根のある場所で眠るようになれたことや、食事にありつけるようになれたことは奇跡というほかない。だから教会でどんな扱いを受けようと育った環境よりは良く、理不尽ないいがかりも暴力も罵倒も、寝台が濡らされても食事が残り滓だけだったとしても、すべてを甘んじて受け入れていた。
だから男が言ったように、"黙ったまま人を避けて過ごしてきた"ということに一切の間違いはない。
けれどハリエットの胸に怒りがわいていた。この見知らぬ男にどうしてここまでいわれなくてはいけないのか。放って置いて欲しい。関係ない。ふつふつと沸く感情がハリエットの拳に集まっていく。
「あなた…どんな……! あなたはなんなんですか…!」
「はっ、慣れてないと口も回らないのな。助祭が説明したろ? あんたと同じく治療要員さ。まさか白羽の矢が立つなんてね。存在を忘れられてると思ってたが、シモンさんの口添えだろうな。帯持ちの司祭さまは龍下さまとともに街の有力者たちから御接待の最中、シモンさんも当然街にいる。昨日は騒動を逸早く伝達しにいったやつがいたおかげで歓談に穴をあけてまで来てくれたわけだ。大方屋敷に入れず右往左往していたところを運よくあの人が見つけてくれたってところだろうな。そんな人に今日も来てくださいって頼めると思うか?」
「お、思いません…思わないですとも…!…でも、でも、あ、あ、貴方の説明にはなっていませんが!?」
「そうかい。いいね。何を聞きたいんだ? 職位か? 知ってどうする。執行部だったら平伏するか? 人の職位で態度を改めるなんてクズのすることだが、お前はそういう類いの女っていう自己紹介か。おい、どこへ行くつもりだ。言い返せないからって教務を放り出すなよ」
男の腕がハリエットを強引に座らせる。そのまま首に巻きつくと頭を胸板に引き寄せた。
頬を押し付けられ、圧迫される。暴れるもどうにもならない。何かが起こりそうだった。目を縦横に走らせるハリエットの前に、小さな火が近づいてくる。煙草の先端だった。ハリエットはたまらず目を瞑った。
「俺はな一応教職者の端くれではあるが、教会勤めじゃない。大聖堂の医疾部の研究員だ。聖堂に研究施設があるなんて知らないだろう? まぁ知名度は低いな。理力とか薬物の研究をしている。兄弟にも仕事をしてるか疑われるくらいでな……それでまぁ特定の植物を摂取することによって体内の理力を微増させることに成功した。それがここ最近の大発見。俺の世界じゃな。発見したのはたった五節前の事だ。文献を読み漁って、よくわからん下手な絵を解読したり、色々やった。そしたら海港都市での大会で発表してほしいって言われて、小旅行ってわけだ」
「そら、できたぞ」男がそう言ってハリエットを解放した。これでよく見えるだろと、指で弾かれた額が痛い。
前髪は何かに引っ張られて空に向いていた。前髪という覆いを外された額は、篝火の熱気を受けた。鼻の頭に髪の毛が当たらない感覚に慣れない。何より、光が眩く感じて仕方がなかった。炎が眩しい。世界が眩しい。
赤面を隠すものがない。大きく見開いた目とかつてない速度で走り始めた鼓動を知らぬ男はハリエットの眼前で笑っていた。ひょこり、うさぎ耳が嬉しそうに動いていた。
 




