表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

94/411

94 規律と月光と、

朝食の時間を過ぎた頃、御白さまは馬車までお戻りになった。

付き添っていたのは昨日迎えに来た青年ではなかったが、同じ執行部の服を着た壮年の男だった。御白さまを抱き、街から野営地までやってきた彼をハリエットは恭順の姿勢をとって出迎えた。話しかけることはしない。他者に興味がないという事もあったが、修道女ごときが軽々しく話しかけていい相手ではないと弁えている。


御白さまを抱きあげていた男はハリエットの前で立ち止まった。ハリエットは目線だけを滑らせ、視界に入る金糸で縛られた男物の靴先と、そばに舞い降りた小さな美しい白を見ていた。

男はしばらく無言で立っていた。戻らないのなら、何か伝えることがあるのだろうかと考えてハリエットは背筋を凍らせる。自分にも他人にも無頓着なハリエットは気づかぬうちに相手を怒らせることがよくある。全速力で謝るべきか、後退りすべきか逡巡する。しかし男は靴先にかすかに躊躇いを乗せたあと、振り返っていってしまった。


(…………何も…何も言われなかった…………?)


足音が遠ざかってから顔をあげたハリエットは視界の隅々に執行部の服を探し、居ないことを確かめると吐息を思い切り噴出させた。脱力して折れ曲がった背が情けない姿勢をつくる。


さて目の前には美しい少女が佇んでいた。面紗は持ち上がっておらず、真正面を向いたまま動かない。

この時点でハリエットがしなければならないのは朝の挨拶、健康状態についての確認だった。そのあとは抱き上げて馬車の中にお連れすること。靴を脱がせて土を払って、それから新しい室内履きに交換する。馬車の後ろと座席の下に収納されている荷物は早朝に整頓をし終えているから今日は荷物について少しだけ詳しい。清潔な水と軽食もラヒム助祭に用意してもらったため道中慌てることもない。


「おはようございます……よく眠れましたでしょうか」


ハリエットは小さな天使の前に両膝をついた。

短靴、細い脚を縛り上げる脚絆、開花した花のような裾の広がった下衣、重ねた薄衣、頭から胸までを覆う面紗―――乱れはなく、汚れもない新しい衣は太陽の匂いがした。

過去から未来まで永劫変わらぬであろう美しさを湛えたままの少女は綿花のように軽く、柔らかく見える。


太陽はまだ低い場所にあったが、馬車の扉の上に設けられた小さな日除けに彼女を移動させなければと考えた。どう考えてもそれが正しい。

御白さまを抱き上げると感じるはずの抵抗はなく、今日も何の反応も返されない。


そのとき川を遡上してきた風が馬車にぶつかり、開いたままの扉を力強く叩いた。大きな音を立てて閉じた扉は、ハリエットの腕の中の御白さまの衣裳をかすり、裾を翻した。あともう一歩進んでいれば弾き飛ばされていた。頭の中で地面に横たわる白を想像し、ハリエットは硬直してしまう。


一つの過去が呼び起こされていた。癇癪を起こした同室の女が怒って部屋を出ていく時にわざと音を立てて扉を閉めていく姿と、部屋の隅でうずくまっている自分の姿が脳裏に浮かんだ。体を折りながら汚く泣いている自分を感情の無い目で見下ろす。いさかいの理由は思い出せないけれど、それ以来どうしても音に敏感になってしまっていた。


ふとハリエットは違和感に瞠目した。肩を掴まれている。衣装の上からでも肌に押し当てられる指の形がわかった。両肩に添えられた御白さまの手が、ハリエットを確かに掴んでいた。


「大丈夫です。怖かったですね。私も怖かったのですよ……」


ひとりでに言葉がこぼれていた。頷いて欲しかったわけではなかったが、よく考え抜かれた言葉でないことは確かだった。大丈夫だなんてどんな根拠があって言うのだろう。グズがいう「大丈夫」に意味なんてないのに。

御白さまを座席に乗せると、腕はするりと外され、真っ白いお人形のように手足が置かれる。また言葉がこぼれだしそうになったが、口を縫い付けて靴を脱がせた。


(お眠りになって……いる?)


教務を終えて再び馬車に戻ると、御白さまはこくりと舟を漕いでいた。


(あまりよく眠れなかったのかも……それともお食事が口に合わなかったとか……体調が優れない…? お熱があったら……どうしよう………)


こういう時、言葉のやりとりができない相手の真意をくみ取るにはどのようにすればいいのかわからなかった。


―――――お前は何も知ってはいけない。何も見てもいけない。

何も求めてもいけない。ただ尽くしなさい


面紗をめくろうとした指先は白布の前から動かない。

前方の小窓が叩かれた。視線封じの幕を引くとこちらを覗きこんでいる御者が出立を伝えた。御者の視線が不審を咎めてくるように思えて、ハリエットの胸は騒々しく脈打っていた。扉を内側から施錠し、座席の下からたっぷりとした厚みの毛布を取り出して御白さまの胸元に掛ける。


小さな手が真っ白い毛布の雪原をたぐりよせるのを暗い顔で見つめている。心はざわついていたが行動に移さなければ無関心と同じことなのだろうか。ハリエットの問いは答えが出ない。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ