90 鹿と月光と、
うつろな足取りは幕の手前で傾いた。
地を踏む足が膝をつく様は、希望を喪失した者が見せる最期に酷似している。孤独のなかに沈む男を見ていたのはハリエットだけだった。
(助けなきゃ…)
―――でも関わりたくない
(体を支えてあげなきゃ、あのままじゃ……)
―――私がいななくても誰かが
杭で打たれたように足は動かない。だから歩けないのは私のせいじゃない。
しきりに言い逃れても目は男に吸い付いたまま離れなかった。
口に唾が溜まる。誰かが飛び出してきて、彼を支えてくれる姿を思い描いた。ハリエットは待っている。いかなくてもいいよ、彼はどうにかなるよ、誰かがどうにかするよ、だからお前は必要ないんだよ。誰かにそう言ってもらえることを待っていた。ハリエットは意味のない者のままでいたかった。そうしている事が楽だったからだ。しかし待てどもあるのは、むきだしの歯列から滝のように唾液をこぼす男の苦悶に満ちた顔だけだった。男が不意に上げたまなこはハリエットを捉えた。頭の中で声がする。見苦しい、情けない、お前の人生は意味がない。そんな事はわかっている。私は意味のない者。ハリエットは目を逸らした。
その時、土を蹴り上げて駆け付けた白服の男が、顎を開いて呻く男に寄り添い混濁する意識に呼びかけた。
大きい鹿角を持つ壮年の男は体を叩いたり触ったりして反応を窺う。
「肩か」という短い問いに男が精一杯頷く。
ハリエットはほんの数歩のところで起こっている出来事を自分とは切り離して遠くの事のように見ようとしていた。息を殺して後退りをしてなるべく早くここから離れたかった。食事や寝床のこと等どうでもいい。
弱気を全身から発する女になど価値はなく、透いて見える相手任せの姿勢はハリエットを他者の視界から消した。
どんッ、――衝撃を受けてよろめく。「邪魔だ!」と唐突に叫ばれて地面に突っ伏したハリエットは沈黙を選んだ。足音が遠ざかるまで下を見つめている。
掴んだ草の冷たさが指にしみた。
(怒られたのは私じゃない、私じゃない、私じゃない)
念じる頑固さは微妙な尊大さがあった。
「アンタ、力貸してくれないか! アンタ! そこのアンタだ!」
ハリエットが顔を上げると、天幕の灯りを背にぼやけた輪郭が見えた。膝をつく男と寄り添う鹿の角が夜空に伸びて、逆光の中では本物の鹿の陰になっていた。
見つかった。見つかってしまった。とめどない汗が胸から腹に落ちる感覚があった。逃げ出すことは容易ではなかった。男の目色は冷静で確かにハリエットを捉えている。
「わ、た……わっ…!?」
「そうだお前だ! こっちへきてくれ! ここを抑えていてくれないか! 肩が外れてるんだ、早く入れてやらなきゃならねえ。あんた相当痛かったろう。誰も相手してくれなかったんだな。がんばったな。がんばった。もうちょっとの辛抱だ。最後にもちょっと我慢できるか、何か噛んでろ、な。な。お嬢ちゃん袖貸してやってくれ、裾でもいいから!」
「へ!? 何を?!」
耳元を飛ぶ蜂のような男だと思った。鹿角の男はハリエットの下衣の裾を掴むと男の口に含ませた。
「舌を噛み切られるよりはいいだろう。もっと噛め、もっとだ。詰めるぞ。本当はな、こういうのは重い物でも持って横になって自然に」
「ああッ!!!」
「入った。終わった、終わったぞ。他に痛いところは、ほらどうだ、肩以外はどうだ? ほらお嬢ちゃん顔を拭いてやってくれ」
一瞬だった。男を抱く軽やかな動作の合間に骨が鳴っただけだった。あれだけ苦悶の表情を浮かべていた男は、はたと時を止めて瞠目したまま動かない。本当にあっと言う間の早業だった。
ハリエットも男と全く同じ顔をしていた。鹿角の男にもう一度「ほら顔を拭いてやれ」と言われたので、手だけは動かした。驚きすぎて彼を見たまま開いた口がふさがらない。自分の裾を男の口(唾液を吸って濡れたものが唇に乗っているだけだった)から布を引き抜くと、涎で濡れていない部分で顔を拭ってやった。気持ちはわかります、と何故だかそう言ってあげたい気持ちが生じた。
「肩が外れるなんて怖ろしいな。俺だって嫌だぞ。でももう大丈夫だ。な?……少しここで休んでいろ。な、そうしろよ。繰り返さないように気をつけるんだぞ。また外れたらすぐ入れてやるから」
何度も安静にしていろと言い残して男は立ち上がった。ハリエットも一息つくと、男の顔を拭っていた腕が引っ張られるのを感じた。「えぇっ!?」無理やり引き上げられる。鹿の角の男が「次いくぞ!」と言った。
◆
立ち上がると膝が痛んだ。長時間同じ姿勢でいたせいで痺れている。ラヒムは腰を反らせながら周囲を見渡した。天幕の人影は落ち着き、右往左往する者はいなくなっていた。
停滞していた血の臭いは、一か所開いた入口から吹き寄せる風に押されていく。
「初日からこのような事になるとは」
自分の思考が音になったかと思った。寝台の隅にしゃがみこんでいる者たちの囁きに静かに耳を傾ける。みな疲れ切って立っているのも億劫になっていた。




