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09 渇いた口と、

寝物語が一区切りつく頃には朝が始まっていた。

シャルル・ヴァロワは神水の節らしい高い空を見上げて細く息を吐きだすと、脳裏に浮かんでいた「龍」や「にんげん」たちが吐息とともに霧散していくのを感じた。戯れに始めた揺籃歌だったが、どうやらのめり込んでいたらしい。自分がどのように語ったかはほとんど覚えていないが、口は渇きを訴えている。


硝子天井の向こうの青空から視線を外し、そのまま頭を後ろに倒す。長椅子の背もたれに体を預けながら首を捻るとバキリと思ったより大きな音が響いた。(しまった)と膝上の寝顔を窺うが、睫毛は動いていなかった。ほっとしながら、自分も少しだけ身なりを崩す。襟元を引きおろすと、朝の空気が首裏を抜けた。


(良かった……そのまま眠ってくれリリィ)


膝の上に微かな重みと体温を感じるというのに彼女の存在はどこか希薄で今にも掻き消えてしまいそうだった。シャルルはじっと彼女を見つめる。視線を下げたまましばらく彼女だけを見ていた。


肩に添えていた手をゆっくりと離すと、天井から差しこむ朝日に肩から腕にかけての細い線が浮き彫りになった。白衣を脱いだ彼女は薄着のまま生足を晒しており、誠実に守らなくてはと思わされる。自分の上着は壁に掛かっていたが、長椅子から立ち上がらなくては取りに行くことはかなわず、シャルルは何か他の手を探すために研究室を見渡した。その時、戸口から響いた金属の音が彼の注意を引いた。シャルルは時計を見てから戸口の方を振り返る。


時刻は七時――秒針が盤面の頂点を跨いだ瞬間、戸口が開いた。


ほどなくして長身の男が顔を出した。アルルノフ・ベルはリーリートの研究室に配属されている唯一の研究員で、入職して二年目の青年だった。彼は脇に抱えていた巻紙を適当な机に置くと、長椅子に向かってくる。巻紙には教授としてリーリートが目を通さねばならない文章がしたためられている。今日の業務量は重くないといいんだが、と既に重い息を吐きながらシャルルは視線をアルルノフにうつした。彼は室内に視線をめぐらせており、姿の見えない上司を探しているのだろう。


「おはようございます、シャルルさん。施錠してあると思いましたがもう出勤されていたのですね。教授もおられますでしょうか?」

「おはよう。ついさっき終わったばかりだよ。この通りね」


「この通りとは」とアルルノフの口が開きかけたが、彼は横になっている上司に気がつくと直ぐさま足を止めた。

「毛布をお持ちします」

助かる、と背中に声を掛け、翻る白衣を見送る。


研究室には個室があり、初期は応接間であったが、今は収蔵しきれない本や巻紙を収納している書庫となっている。生活用品もいくつか置いてあるため、リーリートが気に入っている手触りのいい毛布を手に戻ってきたアルルノフは長椅子の前に回り込むと、毛布を広げる前に目線で対応の許可を求めた。


シャルルはアルルノフの上司ではなく、また研究所に所属していないため直接的には関係が無い。しかし彼は教授に関連する行動は必ずシャルルに許可を求めるようにしていた。

シャルルから頷きが返されたのを確認し、羽根を落とすようにふわりと毛布を掛ける。


現在朝の七時過ぎ――先程まで業務をおこなっていたならば、過剰な労働にもほどがあるとアルルノフは瞬きもせずに思考する。上司が抱えている案件数と進捗を思い返すが、自分が退勤した時点で緊急の案件は対応を完了していた。明日に回しても問題のないものだけを残し、それらの対応は明日に回すと報告し――既に日付は回っていたので今日だが――教授の許可も取った。帰宅すると告げた時には、教授も区切りがいいから帰ると言ったことは記憶している。先に退室したが、その後教授に何か重大な出来事でもあったということか。


「ん……」


男二人に挟まれていた白い頭が動いた。シャルルとアルルノフは当然呼吸すら止める。一度寝付けば起きない上司が、めずらしく身じろいだ。

未だに毛布の端を掴んでいたアルルノフは流れ落ちる白髪から視線を外すと、アルルノフの表情を観察することにした。

教授が信頼を寄せる男の目が笑ったように思えた。アルルノフは目で笑った経験はなく、辞書でみた言葉が実際にあるとすればこのような面差しになるのだと学ぶ。教授は少し動いたあと、またかくんと力を抜いたので眠ったようだ。髪の向こうに白いうなじが見えて、また視線を逸らさなくてはならなかった。アルルノフは少し間を開けてシャルルを見上げると、彼は何やら破顔している。思わず疑問が口をついた。


「どうかなさいましたか」

「いや。それが……夢の中で何か食べてるみたいなんだ」

「……? お食事の夢でしょうか。わかるのですか?」

「好物の氷菓子を食べてる時と同じ顔をしている。今度教えよう」

「はい、是非お願いします」


第三者がここにいれば奇妙な会話に怪訝な顔をしたかも知れない。

けれど男二人は、視線が常に一人に向かっているという点が「最初から」「そして今も」共通していた。一生変化のないものだと思っている。アルルノフは上司が寝入ったことを確認すると、静かに立ちあがる。業務時間は開始しているのだ。

シャルルも瞼を閉じた。次に目覚める時にも、彼女がまだ眠りの中にいてくれることを願いながら。






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