85 初日と月光と、
アクエレイルを発つ朝、大聖堂から南門までの通りに市民が詰めかけて龍下を見送り、慶事を祝っていた。龍下が車窓からお手振りをなさったことで混雑と熱気はさらに加速し、都市圏を脱したのは午下のこと。
都市を離れると風の通る草原、樹木の陰が黒々と深い森林、マーニュ川に流れ込む支川ばかりののどかな風景が連なる。時折牧草地が姿をあらわし、畦道の草を食む牛のそばを通ったこともあった。
橋の下で生まれ育った修道女にとってはすべてが未知の世界であったが、前髪で視線を隠していつものように真下を向いていたため、ほとんどのものは彼女の金の髪の向こうで通り過ぎていく。けれど風に乗って届くものもある。
「どちらの教区の方ですか」
「イスル教区のブリットンです」
「う! 噂のブロートン・ブリットンですか! なんでも陽の日の共食では司祭さまご自身が歌を披露なさるとか。誰も席を立たず聞き惚れる美声の持ち主というお話は本当なのですか? ずっとお聞きしたかったのです」
「……実は本当なのです……いや前半だけです肯定したのは…あの…そのですね、ここだけの話にして欲しいのですが……司祭さまの歌声はとても独特でございまして、逃げずにじっと座っておられる方の多くは失神していらっ……え!? あ、いま司祭さまのお声が聞こえたような気が致します!! 私はなにも、何も申しておりません! 神に誓って! そうですね!」
「えぇ!? あッはい! だ、誰もいませんが…!?」
徒歩に合わせてゆっくりと進む道中、馬の蹄の音とともに聴こえてくる声は自然と修道女の耳に入った。
こういったやりとりは挨拶代わりに交わされて、馬車の周囲をかためる供人らは親睦を深めているようだった。
それもそのはず、揃いの衣服をまとい、同じ方向に向けて歩き、これから数日を掛けて旅をする、いわば同志であった。食料や物資を運ぶ者、祝祭に必要な道具を持つ者などそれぞれが役目を持っているため歩く場所さえ決まっている。名前や素性を明かしあって親交を深めようとするのは至って普通の事なのだ。
徒歩で随行する者の中には修道女も含まれる。彼女らは男たちの会話に入って花を添えていることだろう。しかし前髪で顔を隠した修道女は自分が馬車という密室にいることを真底安堵していた。会話をしている彼らを前髪のあいまからちらりと覗く気も起こらず、反対に姿が見つからないように、見えない範囲に移動してひたすらに避けていた。
(御白さまのお世話をしているだけで終わる…なんてことないかしら………)
人付き合いはできない。海港都市までの期間中、誰とも話さずに過ごす方法はないかと考えを巡らせていた修道女は、当然そういうわけにはいかないという事を思い知らされる。
「お迎えにあがりました」
雲に囲まれた月が輝き始めた頃、最初の宿場に到着した馬車に凛とした硬い声が掛けられた。まるで背筋に大木が通っているような真っ直ぐな声だった。
しかし馬車の中にいた修道女は固まっていた。誰を迎えにきたというのだろう。口を「い」と食いしばりながら考える。
まず第一、自分にかけられた声ではない。
―――――沈黙。
(御白さまに決まってるじゃない…! ばか…!)
いつも「グズ」だとか「のろい」だとか「気が利かない」といわれているだけはある。
短い間に重い自己嫌悪をした修道女が急いで扉を開けると、街明かりを背にして白服の男が立っていた。にこりともしない冷たい瞳に射抜かれ肩をすくめる。目線を泳がせてしまったが、代わりに外套に橙色の帯が巻きつけられていることに気づいた。修道女はすぐさま馬車から飛び出すと地面にひれ伏した。
教会人は白をまとう。
それらは色で職業を区別するこの国の規律のひとつだ。
修道女は緑の衣装で襟元に白。白の面積の少なさに位階の低さが表れている。上位にいくと白衣に差し色がつく。その色が赤に近くなるほど位階は高まる。目の前の男性は司祭さまより若く見えたが、橙色の帯をつけている。修道女程度が言葉を交わすことも憚られる方なのだ。
馬車の周囲には何人かの教会人がいた。野営の準備がてら、遠巻きに橙色の帯の青年を見ていた彼らの前で脱兎のごとく飛び出てきた修道女の姿は奇行ではあった。しかし対する切れ長の目をした青年は、苦言を呈するより先に自ずから平伏した女を見て鼻を鳴らし「良い心がけだ」と微かに口角を上げた。
機嫌をよくした男は無視しようとしていた女を見つめてゆるりと微笑むと、生娘に見せる顔をわざわざ作ってやった。
「フラーケ教会の方ですね。修道女を付けたという話は聞き及んでいます。私は大聖堂執行部所属のディード・ハンネネン。龍下の命を受け、お嬢様をお迎えにあがりました」
修道女は言葉の代わりに地面に額をつけたまま後退した。
男はくふと楽し気に笑った。
「後ずさりの練習ですか?」
随分気をよくした男は更に「お上手ですね」と付け加えた。
修道女は土のついた唇で「もったいないお言葉」と言ったが、頭の中でのみ返され、実際は音になっていない。




