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84 さるお方と、

「お気に召しましてございますか」

「気に障ることもない」


今度は肩を突かれる。

頭上で金属と金属がぶつかる音がした。土くれを見つめる修道女の目に地面に落ちた一筋の影が見えた。硬質な長細い棒が修道女の頭から肩を、形を撫でるように移動する。肌に滑り込む冷たい感触は女が反抗を見せるかどうか楽しみながら試しているようだった。


「私の目にはお前は孤児だとみえる」


これは私に言っている。

修道女は平伏したまま答えた。


「パレンケ教区、オデオン橋の下の生まれです」

「オデオン、ああ、懐かしい名前だ。あの川の上流には白い小さな花が水中で開花する、とても清らな場所がある。糸のように細く束になった葉が水底に広がり、その上に白や淡黄色の小さな花が咲くんだ。水が澄んでいないと生きていけない。お前はそういったものが好きだ。そうだね」

――――間。何と答えれば良いのかわからない。

「………」

「そうか、そうか好きか」


女の身の内で緊迫が増大する。自分に語り掛けられている訳ではないと気づき、修道女は雌鹿のような背中を震わせ、身をさらにかがめた。もうひとり、馬車の中にいるのだ。


「そこで頭を垂れている女がお前の随伴に努める。気に入らなかったらすぐにそう言いなさい」


声はとても穏やかだったが、修道女の耳には笑いさざめていているように聞こえた。

やさしい声に促されて、誰かが段差をこつり、こつりと下りてくる。男が踏めばいつも鳴る木板が軋まない。ちいさな足音は止んだが、待てども地面は踏まれなかった。人の気配はすぐそこにある。顔を伏せたまま戸惑っていると隣にいた司祭が「顔をあげなさい」と冷たく言った。


修道女はおそるおそる顔をあげる。前髪が緞帳のように引き上げられると、視界の真ん中に真っ白いものが現れる。靴幅ほどの狭い足掛けにちょこんと乗った小さな足が、ぴたりと揃えられて修道女の方を向いていた。


短靴、細い脚を縛り上げる脚絆、開花した花のような裾の広がった下衣、重ねた薄衣、頭から胸までを覆う面紗―――爪の先から頭まで、見えたすべてが純白だった。


修道女は目を瞠った。草色と土色に充ちた世界に月が降ってきたのだと思った。夜空に煌々と輝く月、遠く決して手の届かない夜空に孤独に浮かぶものが、目の前で輝いている。修道女は首の後ろに横一閃の筋が入るほど肉を食いこませ、口をぱかりと開けたまま月見をしていた。


(なんて……なんて美しいの。天の一角が落ちてきたの…?)


全身を純白に染めた少女の後ろで、しゃらんと金属が鳴った。修道女の酩酊を醒ますに相応しい音色があたりに響いた。

外側に開いた扉の向こう、薄暗い場所に座る男の司祭服が見えた。顔は見えない、けれどその肩から足元にかけて垂れる深紅の帯は、薄闇のなかで血にように昏い。白と赤の祭服―――それはこの国を統べる者がまとう色だ。

錫杖をにぎる皺のある手が上下した。しゃらん、透き通る音が鳴る。錫杖の上部についた金環がぶつかりあって踊った。


「ききなさい。お前は何も知ってはいけない。何も見てもいけない。何も求めてもいけない。ただ尽くしなさい」


司祭様に腕を引かれ、修道女は再び平伏する。勢い余って額に土がついても構わず、擦りつけた。





「御白さま、湿地の中に家があります。水面に浮いているようですね」


粗末で隙間だらけの家を指さしても、面紗のなかの頭は動かない。世界で唯一、純白をまとうことを許された美しい少女は静かに空を見上げていた。修道女は動かない少女を見ながらひっそりとため息をこぼした。


アクエレイルを出発した長い列は今日八本目の橋を渡った。

最後に通ったのは石造り橋で、湾曲した街道からは橋を渡る先頭集団と苔むした橋の横顔がよく見えた。


アクエレイルを南下してしばらく行くと河川が頻繁に氾濫する地帯に入った。洪水のたびに流路を変える川は蛇行して、街道もその都度道を変える。水はけが悪いため景色は湿地ばかりになった。変わらないのは常に左手を流れるマーニュ川を随伴としていることだ。


司祭から手渡された生活用品の入った大きな鞄を開き、中身を確かめる作業に戻る。その間御白さまと会話を試みるも、彼女は何も話さなかった。馬車は二人きり。彼女は何も喋らず、感情を身振りで表すこともない。口がきけないのか、もしくは耳が聴こえないのかと思ったが、それを確かめる必要などないのだろう。命じられたのは尽くす事、ただそれだけだ。


小さな天の遣いはじっと空を見ている。心をどこか遠くに遣わしているのだろうか。ほとんど動かないかと思えば、何かに惹かれるようにふらりと行ってしまう。先程も小休憩の合間に馬車から消えてしまった。思い出すだけで胸がきゅっと苦しくなる。仕事のできない自分に嫌気がさして、大きなため息を吐きたくなった。


出来の悪い自分がどうしてこの旅の同行を命じられたのかわからなかった。どうしてこんな何人にも侵されないような純白のお方のお世話を命じられたのかもわからなかった。会話が成立しないまま時間だけが過ぎゆく。


(御白さま……)


勝手につけた呼び名だったが、嫌がられてはいないだろうか。

そんな簡単な事すらもわからない。






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