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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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83 白の一団と、

首を巡らせると湿地に群落をつくる野草に目が留まった。

茎の一節から一枚ずつ丸みを帯びた葉が伸びて、頂生する淡黄色の花とともに風にめいめい揺れている。


それらはまるで川辺を彩る金色の草原のように見えたが、基盤は緩い湿地。遠くばかりを見つめていた少女はそうとは知らず、馬車の一団から離れて草原に向けて歩き出した。畦道から一歩踏み入れば、落葉に埋もれたこもった水の流れに迎えられる。真っ白い短靴が半ばぬかるみにとられても少女は前だけを見ている。


少女の姿がないことに気づいた従者が慌てて周囲を見渡した頃には、小さな背は葦の群れに入ろうとしていた。従者は弓弦を引き絞ったような悲鳴をあげて駆け寄る。夢を見ているように少女の歩みは遅く、その背中を見失うことはなかった。

舞衣の重なる脇に両手を差しこんで抱き上げる。ぶらりと下を向いた足から泥水が滴り落ちた。少女はされるがままで、従者の荒れる吐息もきこえぬようにぼんやりとしていた。


「鈴はどうなさいました。龍下からあちらを賜った時の私の喜びようをお察しくださいませ。どうかどうか私を見捨てないでください……」


細い体を抱きしめると帯と装いの硬さのみが伝わった。少女は何も答えず、葦の向こうの川鳴りだけが従者の耳に響いた。

少女を抱いたまま直ぐさま馬車へと立ち返った従者は、泥にまみれた短靴を脱がせると尖端を手近な草にこすりつけて泥を払う。

また見失ってしまうのではないかという不安が従者を何度も振り返らせた。少女は靴を脱がせた時から変わらぬ姿で、赤地の豪華な座席の上に座っている。絹をまとった足が投げ出されたまま、裾といっしょに垂れ落ちている。見目は天の遣いのようだった。


泥を粗方落とした靴を足元に置いて、従者は少女の乱れた袂を胸に合わせながら一向に目線の揃わない少女に向かって親切に声をかけた。


「寒くはありませんか」

「……………」

「お口が渇いたのではありませんか。甘い水をお持ちしましょう」

「……………」

「先程木陰に咲いていたハイバをとってまいったのです。それでお目を離してしまったのです……すぐに持って参りますね。きっと貴方様を不憫に思って今日という日に咲いてくれたのですよ」

「……………」

「お目を離してしまって本当に申し訳ありません、鈴は……あぁお手に握っていらしたのですね。二つとない鈴ですから、落とさぬように握ってくださっていたのですね」

「……………」


女は少女の世話係であったが、この少女が龍下の何に当たるのかということを知らずに付いていた。

社交性もなく、交友関係に疎いばかりか、人と目を合わせられぬ性分を直せぬままいたずらに生きてきてしまった。女はよくある孤児で明日をも知れない命だった。それが教会に入って緑の服をまとう者――修道女に成れたのは幸運というほかにない。


宛てもなく都市を彷徨っていたあの日、教会の戸口を掃除していた修道女の目に留まり、中に招いてもらわなければ。ボロ切れを脱がせて、垢まみれの体を洗って、食べ物を与えられていなければ、とっくに天に召されていたのだから。


そればかりではない。女は食事の作法が悪いと揶揄われるときも、前に人がいると知らずにぶつかってしまったときも、汚水がたっぷりと入った水桶を持って階段をあがっているときに背中に虫をいれられたときも、施しの列に並ぶ人たちから木皿を受け取るときも、いつでも真下を向いていた。


前髪を垂らして目に掛ければ、向けられる視線を感じないでいられる。そうしなければ生きていけなかった。同室の修道女は人の物を盗む癖があった。眠りについたのを見計らって袖机の引き出しが開けられ、私物を物色される異音が静まった部屋で反響する。物音ひとつで目が覚めるほど眠りが浅い女は異変に気がついた。けれどそれでも寝たふりを続けた。寝返りをうつ度胸もない。そのような情けない女だった。


女は極力ひととの接触を避けた。二つの瞳が自分に向けられていると思うと体が固まって動けなくなる。どんな不便があろうと下を向き続けた。


アクエレイルの南門を抜けて街道をずっと行った先、ヴァンダール地方の海港都市で大きな集まり――なんとか大会というらしい――が開かれるので同行して欲しいと司祭様にいわれた時は言葉が詰まった。どうして、と普通なら聞くところなのかも知れない。もちろん理由を問えるわけもなく、ただ頷いただけだった。


当日司祭の踵を見ながら背中についていくと、何人もの教会人の足が視界の左右に流れていく。想像よりも多くの人がいることに修道女の首はますます折れ下がった。司祭が立ち止まった。背中に頭をぶつけなかったのは「あと三歩歩いたら止まって平伏しなさい」と先に言ってくれたからだった。


修道女が平伏すると目の前に大きな車輪が二つあった。その奥にも二つ。それにより馬車の扉の前にいるのだと気がつく。石畳に額をこすりつけながら何かを待った。思い当たることはこうである―――きっと高貴なお方が乗っていらっしゃるのだろう。


「病気は治ったのかな」

「いいえ、治っておりません」


高い所から落ちてきた声に答えたのは司祭だった。司祭の声はそばにある。彼もまた平伏しているのだろう。


「可哀想に」


誰かが修道女の頭を撫でた。






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