81 成長と、
バティストンが部屋に入るとレニエは肌着を縫う手を止めて顔をあげた。
余所事をしていても微笑んで出迎えてくれる。どんなに疲れていてもこうした善性に容易く絆されて、バティストンも微笑みを返した。出逢った頃は口づけのあと「それで笑っているつもりなの?」と顔をほぐされてじゃれついた日々もあった。
かつてバティストンを魅了した笑みは年齢に隔てられ、触れるのも畏れるほどの神秘さはなくなっていた。結婚してもなお公衆道徳を侵すような服をまとい、男という生物に対してすべからく色目を遣っていたレニエだったが、落ち着いた装いに身を包んで、母としての顔を見せるようになった。全身を酩酊させるような甘い声は赤子をあやす言葉となり、すべての空気を変えてしまえる圧倒的な美しさもまた男たちに向けられることはなくなった。それでもバティストンにそれらを惜しむ気持ちはなかった。
手入れの行き届いた部屋で赤子の肌着を縫う姿は、磁器でできた美しい器のような品の良さがある。眺めているだけで充分だった。
「おかえりなさい。商会はどう?」
「はぁ……正直な、大会が一日でも早く終わればいいと思う位だ」
「大変ね」と微笑む姿に思う所があったバティストンだったが沈黙を選んだ。レニエに切りわけたい業務があり、商会の夫人として表立って動いて欲しいという希望は未だにあった。けれど彼女の満ち足りた姿を見れば、壊すようなことは言える訳がない。
レニエはあれだけ身に着けていた宝石をつけなくなった。大きく派手な帽子を被ることも、お気に入りの耳飾りもつけなくなった。夜を昼と思うような生活も、子供に合わせて寝起きするように変わった。
バティストンはそこまで親身にならなかった。仕事を何よりも優先し、それにより家を守る事で還元できていると思った。レニエが湯水のように使う金も、子供のために使われる金も、商会に勤めるものたちが暮らしていく金も、何もかも自分で稼ぎ出しているという自負があった。夜泣きする子供をあやしたことが一度もなかったとしても、家族を守っていることに変わりはないと思っている。
「あいつは」
子供部屋へと続く扉を見る。
「泣き疲れてまた眠ったわ。体は小さいのに思想ばかり大きいの、だからああいう目に逢うのよ。これからもっと増えるでしょうね」
「そうか……」
仕立屋で倒れてから二日、レーヴェは昏倒し眠り続けていた。
倒れた時に共にいた女中らの話では、大会期間中に催される祝祭について話をしていたという。
馬車でのやりとりを思い出して、バティストンは袖の釦を外す手を止めた。このところ苦い顔をしてばかりだった。先程もレーヴェが目を覚ましたと言伝をもらった時、シャルルに声を掛けられるまで職場だという事を忘れて考えに耽っていた。
「晩餐会には出席できそうか」
「体はなんともないようだったけれど先生は数日様子をみた方がいいっておっしゃってたわ。だから晩餐会には間に合うわね……あの子にはいつ話すの?」
「晩餐会の最中に話すつもりだ。お前もわかっているはずだと思っていたが」
「と思っていたの。さっきねレーヴェが眠る前にアルがぐずってしまったの。そしたらあの子がアルの手をさすって泣き止ませてくれた。そのとき弟って言ったの」
「間違ってないだろう」
レーヴェとは血のつながりがないとしても、それでも弟だ。
しかしレニエはそれについては否定も肯定もしなかった。話したいのはそういった事ではないのだ。
「アルもレーヴェの指をしっかり握って愛着を覚えているようだったわ。お互いが特別だっていうみたいに見つめ合って可愛いといったらなかった。でも気づいたの。この子には子守歌を歌ってあげたことはなかったって。私はいつも鏡ごしに目を合わせて、生きている事だけを確かめていた。これは懺悔でも後悔でもないわ」
「母親はお前だ。それは間違ってない」
「違うわ。貴方も意味がわかるでしょう。私は最低限母親を演じていただけ。いえ、それ以下よ、みんなが母親役をやっていたわ。私は宣誓上の母親というところかしら。司祭が母親の欄に私の名前を書いて、子供の欄にあの子の名前を書いた。ただそれだけの関係」
バティストンは拒絶を表情に乗せて妻を振り返る。
レニエは首を振った。
「目の敵にしているわけでもない。好きよ、今なら私の子供だって言える。でもね私達がここまでうまく"家族"として当て嵌まってこれたのはあの子の努力なのよ。あの子が従順で、勤勉で、全く反抗せず、文句も言わず、子供として支配されていてくれたから、私達は家族でいられた。あの子は自分の役割をちゃんと理解している。だからあんな礼儀正しい子に育った。あれは私達の教育の成果じゃなく、あの子自身がそういう形にならなきゃ生きていけなかったからなんでしょう。自分の価値を高めるためにどうすればいいか考えて、そうなった」




