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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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80 夢のあとと、

教会主義同盟の大会という名目の元で、アクエレイル、シュナフ、ホルミス、ロライン、そして都市にも満たない小村などのあらゆる場所から教会人が集まる。しかしその多くは龍下との懇談、またはその御姿を目に焼き付ける為に集まるのが本音というものだろう。


前回龍下を海港都市でもてなした時に出されたのは、初献から三十八献に至る酒杯や、饗応に相応しい大皿料理―――真鴨や背開きしたタイの蒸し煮、鱈汁、甘煮、焼き物、強肴、水菓子など、料理人が己の人生という本の奥書まで余すとこなく注力し作り上げた贅を極めた祝膳だった。今回も同等またはそれ以上のものを差し上げるべく、教会はお抱えの料理人や、富者の膳所につとめている者をかき集めた。


バティストン商会は龍下を始め、芽吹の節に訪れる教会人をもてなす上で必要な料理人や、食材、生花などのあらゆる物の調達を担当していた。

料理や飾りはその場限りの消え物だったが、こと料理に関しては龍下が口にするという重要さから、ひとつとして間違えは許されず料理人たちは命懸けで臨む必要があった。


家の外が男の仕事場とするならば、内の仕事は女の領域だ。料理人の選抜や管理面はバティストンの妻であるレニエに一任されたが、彼女はそうした祝事に一切関わろうとはしなかった。夫をはじめ商会の幹部に専心を求められていると気づかぬ訳もなく、かつて都市随一の風呂屋で娼婦たちを統括していたことからも知れるようにレニエに出来ぬことはなかった。けれどそういった希望を撥ねつけて本邸に留まる事を選んだのは、ひとえに愛しい子供の為だった。




気がつくと、レーヴェは寝台に横たわっていた。痛む頭を支えながら起き上がり、朝と変わらぬ自室をぼんやりと眺める。沈黙。焦点を合わせられぬまま心を弛ませて考え込む。いつの間に眠ったのだろうか。今日はいつで、今は朝なのか夜なのかもわからない。窓外を雨が繁々と叩き、雫が滝のように流れていく。レーヴェには何もわからなかった。硝子に貼りつく湿気の匂いは凝った装飾の家具にまとわりついて部屋の空気を重くしている。


「いのしし、ぶた、しか、たこ、いか、くらげ、うずら、ひばり……」


レーヴェは笑った。自分以外誰もいないような気がしていたが、母のやさしい声が聴こえて肺に残留していたものを吐き出すことができた。

ごくりと唾を飲み込むと喉が少し痛んだ。喉をさすっているうちにまた母の声がしたので無言のまま寝台から下りて、続き部屋の扉を開く。

煌々と部屋を照らす照明が白い家具に反射して一瞬目がくらんだ。


「レーヴェ? 気がついたの」


母が振り返った。その胸に赤ん坊を抱いている。

扉のそばに立っていると、部屋を横切ってやってきた母がレーヴェの額を撫でた。


「熱はなさそうね、気分はどう? 歩けるなら少しはよくなったの? どうして誰もいないの、鈴は鳴らした?」

「一度に聞かないでください、母上。少しぼんやりしていますが、体調には問題ありません」

「お医者様がそう言ったわけじゃないでしょう」


母はレーヴェの言葉を流して呼び鈴を鳴らした。やってきた女中に「先生を」と短く言って、赤ん坊の背をとんとんと押しながら「どれだけ眠っていたと思うの」と怒った。レーヴェは「どれくらいですか」と聞き返した。

女中が三人並んで入室し、レニエの前で軽く膝を折った。女主人として慣れた様子で指示を出した母は怪訝な顔をしたまま「二日よ」と言った。

すると女中と入れ替わり、今度は折り襟の上着をきた丸眼鏡の男が顔を出した。黒革の鞄を置いて、中から診療道具を取り出していく医師に母が「この子、覚えてないみたいなの」と小声で告げているのを聴いてしまう。


「母上? 二日とおっしゃいましたか? 私はそんなに眠っていたのですか」

「ねぇレーヴェ、お父様とシャルルと一緒に外出した日の事覚えている?」

「覚えて………? いる、はず、ですが……行きました。行ったと思います。あれ? 晩餐会の衣装を受け取りに行ったのですよね…?」

「レーヴェ様、こちらの石をご覧ください。はい、では目は右へ、左へ…」


指示通りに視線を動かし終えると、額に理力石を押し当てられる。

冷たい石の感触によって――柔らかい何かを額に押し当てていた感覚が一瞬蘇った。しかしレーヴェの意識に触れただけで次の瞬間には遠ざかっていった。

残響が頭の中で響く。真っ白い布のような波が去っていくのを見たような気がした。


「……………夢、を……夢を見ていたのかも知れません」


言葉にしてしまえば知覚の境界は曖昧になってしまった。夢という枠の中に押し込めたものの、もっと別の何かが胸の奥から湧き出てくる。自分自身を取り巻く奇異な感覚に戸惑って仕方がなかった。考えても考えても雲を掴むような感覚だった。迷妄とした混乱が船路をまどわす霧のように脳裏におちて、残ったのは途方もない悲しみだけだった。はっとして目元を拭うと、指先は濡れていた。


「……断定はできませんが、おそらく強い精神的な負荷がかかった事でその前後の記憶が欠落したものと思われます。お気の毒ですが……」

「いいえ。却って良かったのよ。この子は優しすぎる……だからそれでいいの。ねぇレーヴェ、忘れると言う事は今が思い出す時じゃないということなのよ。人はね、たくさんの事を同時に考える事はできないの。だから何も心配しなくていいから……今は好きなように泣きなさい」


「は、い」身動きせずに、涙の合間にただそれだけを擦れた声で言った。






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