08 最後に見たものと、
真白い幻が風に溶けていく。
彼は霞と消えるその時まで壁画を見つめ続けていた。そこまで他者を愛する意味を神様は理解しえなかったが、込められた意志は響いていた。
――決めなくてはならない。
足元には依然として無謀な突進を続ける【にんげん】が群がっている。
分厚い皮膚に防がれ、行動はなんの意味もなさない。それすら理解せず、無能な自身を省みることなく彼らは一心にこちらに向かってくる。
にんげん………絵筆となる手に武器を持つことを選んだ生物。
――このまま進化を見守るべきか。
(手を加えると、そなたは怒るのだろう……)
頭蓋は答えない。それでも佇み、見つめていると地面が動いた。視界の端ににんげんの集団が入り込む。足先が骸に向かっていると気づいたとき、尾は既に放たれていた。
地面を抉り、土くれ諸共にんげんが吹き飛ぶ。衝撃に遅れて音と風が切断され、空間から奪われた空気が一気に押し戻される。土煙が晴れたあと、壁にはにんげんの形をした肉片が積み上がっていた。一瞥し、骸を守るために前に出る。次々と尾を払い、一歩、一歩進む。その分だけ、にんげんは轢き潰され、大地に還っていった。
勢いは削がれていった。集団は距離を取り、慄く。獣なら、もうとっくに逃げているだろうに、震える足は地面に張り付いて使い物にならない。
泣き喚いて膝をつく様を無感動に見下ろしていた。
衝撃を受けた洞穴が、本格的に崩落を始めるまでに時間はかからなかった。縦穴の壁面が剥がれ落ち、太陽の光が惨状を照らし出していく。
前方で新たに空間が抜け、別の空洞とひとつなぎとなった。神様の視線が色づいた壁を捉えたのは、本当に偶然だったのだ。
そこに在ったのは―――絵だった。
(あの絵は………………)
記憶のままにそこに在った。神様は目を凝らし、前のめりになりながらその奥を見つめた。絵は横に広がり、変貌を遂げていた。
白い龍が羽を広げる美しい姿、――かつて彼と共に見たあの絵だ。
その横に赤茶の大群と白い龍の絵があった。龍の足元で無数の赤茶が手を掲げている。その横には幾千もの棒切れで刺され、喉を晒す白い龍の絵があった。
縛られ、地に伏す白い龍の絵が続いた。
過去を映し出すように、明白に、残酷に、
表皮の裂け目から血を噴きだす白い龍、
腕と脚を切断された白い龍、
尾を切断された白い、
体を細切れにされた白い、―――肉の果て、
――――――
思考が焼き切れた瞬間、世界は引き裂かれた。頭上で炸裂した轟音ににんげんたちは咄嗟に耳を覆うが、耳と口から鮮血が噴きあがった。顔料で塗りたくられた白い顔は血にまみれ、溺れる呻きさえ血の海に沈んだ。
神様は地面を薙ぎ払い、褐色と赤茶の群れを次々に土くれに埋める。何度も尾を引き上げ、叩きつける。尾の裏側に肉片がはり付いても葬り続けた。
神様は理性を失ったわけではない。ひたすらに耐えていた。
空洞に満ちる空気に触発され、神様の翼から新しい音が生まれようともがく。けれど神様は必死に抑え込んだ。音を生み出そうとしているのは自身の中にある短絡的な感情が源になっていると理解し、飲み下した。ただの一音もこの行為によって生み出さないという覚悟は白い龍を瞼の裏に思えば為せないことなどなかった。
理性を失ったのはにんげんの方だった。同胞の亡骸を踏み越え、棒切れを振り上げて突進を再開する。その眼にはき違えた覚悟を宿して。
幾度目かの突撃で、蹂躙されていたにんげんが何千回目の足掻きで、棒切れの先端を鱗の下に押し込むことに成功していた。それは奇跡的な確率だった。鱗と皮膚の隙間が微かに浮き上がる。神様はほとんど知覚できない。それほど些細な出来事だった。彼らはその隙に、隙間に棒切れを一斉に差しこんだ。鱗が無理やりに浮き上がる。鱗と皮膚が接着している薄い被膜に執拗に先端が押し付けられる。とうとう鱗の一つがその美しい模様の連続から離脱したとき、神様は初めて失った場所を見つけた。
(痛みなどあるわけがない――)
しかし神様の目の下の肉は一気に隆起した。眼下を睨みつける視界が損なわれるほど強い憎しみが膨れ上がる。
(彼を………彼も同じように)
見下ろしていた手足が、漆黒から純白に切り替わる。幻だとわかっている。わかっている。自分に何度も言い聞かせる。
純白の鱗が、その美しい列伍から剥がされていく。薄い桃色の肉が露出し、神様の目に涙が溜まる。苦しい。悔しい。悔しい。感情が渦巻いてどうしようもなかった。
慟哭の最中、地面に散らばる光が目に入った。土を被って半分埋まった白い鱗が目に入った。
(――殺す!)
咆哮が放たれた。
強烈な光にあらゆる生物の視界が焼かれ、悲鳴をあげる時間さえなかった。空洞はひび割れ、瓦解し、咆哮は雲を殺し、大気を貫いた。
天空から降り注ぐ火球がすべてを赤く染める。
そうして辺り一面が瓦礫のみとなったとき、神様は焦点の合わない目で地面を――虚空を見つめていた。
「――――」
彼の名をそっと囁く。この世で生々滅々する命と同じように失われてしまったその名がかすれた音となって空気に溶けた。
唯一背中で守り続けた亡骸を鼻先でつつくと、ひとつひとつに舌を絡ませ口に含んだ。嚥下し、また他の骨を口にする。
最後の一つを胎の中におさめ終えると、縦穴を突き抜け、雲を突き抜け、ひたすらに上昇する。
黒い星々の屋根の下までやってくると、重い心を振り払うように大地と大海を振り返った。
その頃には己の中に彼の魂が戻ってきたことを感じ取っていた。大気に散らばって星を巡っていた魂を吸いこみ、別たれていた二つの魂が再び一つとなった。
痛かったか、苦しかったのか、どうしてあんな者に易々と、詮無い問いが幾つも過る。けれど今問いたいことはただ一つ。
「――滅ぼすか?」
何もかもを、星そのものすら。
平たい箱庭を見下ろしながら神様は答えを待った。
内側で魂が揺らぐのを感じる。すぐに音が生まれた。
(――いいえ)
神様は驚かなかった。
そこに後悔や躊躇いの音色が欠片でも混ざっていれば、星の全てを滅ぼしたことも確かだった。
それに本当は問う前からそう返されることはわかっていたようにも思う。彼はいつでも他者に与える。果てには自分さえも。けれどどうしても問わなければならなかったのは自身の為だった。
長い沈黙のあと、神様は瞼を閉じた。
翼を最大まで広げると体を包み込むように折り畳む。
すると羽音から生まれた音に反応し、星々から光の帯が飛来した。ゆったりと神様の体に巡り、重なり、繭となった。発光する繭のなかで神様は肉体を捨て、魂だけの存在へと変化していく。
(どうして――)
肉体を捨てていく神に今度は彼が問う。
微かに口角をあげて薄く笑った。
(そなたが私に成りたいと告げた時……どのような音を返せばよいかわからなかった)
考えが理解できない、
(そなたが私をたくさんのものを愛し、与えて生きるものだと告げた時……私は己の事を理解していないことを知った)
愛したことなどないのだから、
(思えばこの何万年、ずっと探していたのだ)
(……見つける事ができたのですか……?)
私の中になかったもの。あるはずもない。
(―――疎い)
震えているのはどちらの魂だっただろう。
繭が解かれると、中から四つの珠が躍り出た。
球体は別々の方向に飛散し、それぞれが、大地に、海に、空、天界に向かっていく。
ふたつの龍の魂はひとつとなり、星に溶けていった。
この時、あらゆる場所で神の消失を多くの生き物が感じ取った。咆哮や嘆きをもって憂いを天に放つ。けれど唯一、ただ穢れた「にんげん」だけは全てを取りこぼし、気づかぬままだった。
愛する者の願いを叶え、自らを差し出した神様が最後に見たのは、変わらぬ美しさで輝く夜明けだった。