79 交わる夢と、
先程まですべてが丸く、初雪のように白くふわふわとしていた布の女の子は、白い生地を何枚も重ねた美しい服をまとった姿に変わっていた。襟や袖の細かいひだや、白糸刺繍の無数の膨らみが陰影を作り、宝飾をなにひとつ身に着けていない彼女を美しく飾り付けていた。
「レーヴェ・フロムダール」
レーヴェは目を瞠った。
「どうして、名前を」
周囲の人影を確かめると、動いているのは自分と彼女だけらしかった。
「おかしなひと」と彼女が笑いながら近づいてくる。三枚重ねの裾から靴先が覗き、長い面紗を引きずる彼女の後ろには白波が広がる。
「さっき貴方が名乗ってくれたもの。レーヴェ・フロムダール、お逢いできて光栄ですって。ねぇ、私の手を握って」
これが嘲笑うような笑い方であれば、もしくは急き立てられるような強迫的な眼差しであれば、自己の内面が見せたおぞましい夢幻様の幻であると楽天的に決めつけることができた。
しかし彼女の眼差しはまるで微睡みの中にいる幼子の額を優しく撫でるようで、嫌悪も警戒もなかった。レーヴェが戸惑っているうちに、放心して無防備になっている手が掴まれる。
何をしても傷つけられないという自負が彼女にはあるのか、レーヴェの手を両手でしっかりと握るとゆるやかに己の額に押し当てた。一人取り残されたレーヴェは手を振り払うこともできず、身を委ねるだけだった。
「これは…あの……えっと、そういう……挨拶?」
「こうしていると貴方が見えるの。こんなうつろなひと初めて」
「うつろ…?」
「理力を持っていないのね。だから貴方の内側は何にも満たされていない空の器のままだわ。私と正反対。ね、わかる? いま私の理力が器に触れてる。感じることはできる?」
「う、え?……あの、……なんだか」
「もう少し…もっと、あ、いま…交じった……ね?」
「あ、……あの…やめてくれると…うれしい…」
「くすぐったい?」と聞いてくる彼女に首を縦に振ってなんとか答えると、面紗の薄布越しでも頬のくぼみまでよく見えた。彼女は手の甲に唇を押し当ててそっと離すと「うれしい」とまたはにかむので、レーヴェはもう愛おしさに息が詰まりそうになってしまった。
清潔で心地よく、彼女のそばは空気の澱みが取り払われるような気がした。森の中で草生を食んでいた雌鹿が不意に首をあげて、時の移ろいを止められぬ旅人と目を合わせた瞬間の美がそこにあった。その為だけに生きてきたという予感を相手にもたらしてしまう、そのような愛らしさでもって全身にしがみついてくるような人だった。
「レーヴェ、……レーヴェはどうやってここに来たの?」
レーヴェは酩酊する薄い意識の中で彼女の言葉を咀嚼した。
「……わ、わからない。気づいたらここにいたんだ。夢の中だと思って……」
「夢? じゃあ私も夢を見ているのかしら。でも………そうね、夢だったら良かった」
難解な言葉遊びは何一つわかることはなかった。まるで違う人生を生きてきた二人がどうして夢の中で交わり、意識を形成しているのか。彼女もまた時折空を見つめ、心因を追及しようとしていることが感じられた。
「ここはね、ずっと悲しいお祭りをしているの。人の本性と思いたくないのに、天性のものだと見せつけられて参ってしまった私の居場所。非情な者たちの嘲弄から逃れて転じた居場所。いつ体得したのかは私にもわからない。貴方のような人はここにくるべきじゃなかった。それだけは確かよ。でも貴方はここにいる……私も聞きたいわ。貴方は本当に自分の意志でここにきたの?」
「…わからない。何を言っているのかわからないよ」
「ごめんなさい、そうよね」と彼女はレーヴェの手を見つめたまま黙った。
その顔がひどく苦しみを背負い、何か得体の知れない――レーヴェには測り知れないものに苛まれているのだと感じた瞬間、レーヴェは思わず手を握り返していた。
「できることはある?」
今度は彼女が目を瞠った。
「ここに来た意味はきっとある筈だよ。もしかしたら君のために来たのかも知れない。だから……」
自分でそう言った時、咄嗟にまた子供じみた事を言っていると頭の片隅で冷静になった。かもしれない―――なんて格好つかない事を言って情けない。
それでもこの夢幻から目が覚めた時に後悔したくなかった。こうして触れることのできる熱を持っている相手からはハイバの花の香りがして、嗅ぎ慣れたどの匂いよりも好ましかった。しばらくなりを潜めていたレーヴェの臭覚に強く訴えかけ、彼女のために何かをしなければならないとそうしきりに感じさせた。
「私のため………じゃあ逃げて…どこか遠くに逃げるの。今すぐよ。それが私の願い」
悲し気に歪められた眉から感じたのは拒絶ではなかった。彼女は何かを深く思案し、恐れているようだった。
「君は不思議だ……逃げろというのに、そんな風に握って離さない」
「……だって貴方が初めてなの。ずっとここにひとりでいたから………」
品の良い唇が笑みを作った。悲劇的な笑みに封じられたものを読み取ることは困難で、沈黙に服従せざるを得ない。
「選んでくれてありがとう……逢えて嬉しかった」
「……何かあるのなら君も一緒に行こう」
「私は行けないもの。さぁもう一度姿を見せて」
彼女は再び壇上に戻り、想いに沈んでいるレーヴェと無理やり距離をとった。
わざと賑やかに裾を振り、白鳥が翼を広げるように大きな仕草を見せた彼女とはおそらくこれでお別れなのだろう。レーヴェの足が掻き消えていく。
「また逢える?」
「すぐに」
夢は願望の実現をみることがある。けれどこれは自身の描いた夢ではなかった。
レーヴェとほぼ変わらぬ背格好だった女の子は、背の高い美しい女性の姿に変わっていた。寂しそうに微笑む女性の名前がレーヴェの口から転げ出た。手を伸ばそうと踏み込んだ足の感覚は既になく、レーヴェは世界から承認されることはなく弾きだされた。




