78 詩歌と、
無垢な視線がレーヴェに注がれている。むしろレーヴェの気は、絵の中の男同様に重い挽き石に圧し掛かられていた。レーヴェの信じる「人は生まれながらに善の性質を持つ」という信仰が音を立てて崩れていくような気がした。けれど彼らを誹謗する気にはなれなかった。レーヴェが自然と生活の中で身に着けた「命は等価であり同等である」という立言の対極に彼らが立っているだけなのだ。それだけ、なのに。両者の間に広がる断崖の如き深さの溝の存在が、その裏表のない表情から滲み出ていた。
「………麻の袋の中にはゾアルの方が入って…い、…るのですか?」
生唾を飲み込みながら問う。
それは数多い種族の中で名前を口にすることも憚られる種族だった。
龍の尾と鱗を持つ彼らは海港都市には一人として存在しない。レーヴェもまたそれらの種族が禁忌とされて、特にこの都市には立ち入りすら禁じられている事を教師から伝えられていた。差別の理由を問おうにも何も答えてくれず、答えを知る術もなかった。
ゾアル――禁忌の名前。禁忌の種族。
レーヴェの脳裏には生物のごとく蠢く麻の袋が浮かんでいた。痙攣する瞼は精神と同調し、不安な緊張が緊迫をもって生まれる。レーヴェは静かに問いかけたが、彼らは物を知らぬ子供に教える機会を得たとわかり白熱したようだった。
「ゾアルですよ! ゾアル。あれの中に入って……レーヴェ様、もしかして祝祭自体ご存知ないのではありませんか? きちんと説明しますと、街の外にゾアルの集落があって、そこから一人捕まえてくるのです。彼らは生まれながらの罪人ですから、その血をもって龍下と神に贖ってもらう決まりなんです。なんでもその一人は集落側で贄となるように差し出された者なのだそうですよ。一人ずつだなんてことをせずに一気にやってしまえばいいのにと思いますけど……」
レーヴェは重く垂れた頭を左手で支えた。最早無駄な抵抗に見えた。
「ッ、は?……あ、…誰が、誰がそのような事を………"決まり"……? どうして……何故?」
「勿論龍下さまをお出迎えする為ですよ! あの方がいらっしゃるのですから退魔の儀式をしないといけません…始まりはずっと前らしいですけれど……知っていて?」
「いいえ。あ、教会の歌はどうかしら? 芽吹の退魔の歌があるのですよ。小さい頃に教えられて、みなで良く歌いました」
「君たちは特に上手だと褒められていた歌だね」
「そう! そうなの」
「歌ってさしあげる? ね?」
「えぇそうね、ひさしぶりだわ」
これほど愛おしく顔を合わせる二人を耐え難く見た事はなかった。
胸の前で指を折り重ね、祈りの姿勢をとった彼女らは目配せして互いの呼吸を合わせた。
彼女たちの歌声はレーヴェの精神に障害をおこした。ぴったりと合わさった二つの声は催眠術の暗示的な力があった。その歌声が澄みわたればわたるほどにレーヴェの心は色々な形に変化し、言葉では表現しにくいほどに融けて、歪んで、狂っていった。
「わたしたちはこの悪魔を抜き身の剣で打ちましょう
わたしたちはこの悪魔を畑を刈る鎌で削ぎましょう
悪魔は大きくもあり小さくもあるから
すべてのひとに幸福を届かせるために
あまねく罪人の尻尾を捕まえ
あまねく罪人の首を刎ねましょう」
命への冒涜が敷き詰められている詩歌がレーヴェの心臓を貫通し、苦しく過酷な空気から抜け出すには意識を手放すほかなかった。レーヴェは水中に身を投げるように倒れ込む。それは最後の抵抗であり、敗れた瞬間でもあった。
◆
――――あたたかい手だね。
その声はあたかも黒い雨雲を吹き飛ばし、青い空から光を降り注ぐようだった。レーヴェは目を覚ますと自分が遥か未来か、遥か過去か、明瞭に知ることのできない不可思議な空間にいることに気づいた。天上がとても高く、段差の手前に立っていた。豪華な調度品や絨毯がひかれており、背後には人影もある。少し距離を取って膝をつくような人影が二つ、更にその向こうには棒立ちの人影が複数、みなレーヴェの方に体を向けている。けれど物も人も建物も雨に煙るようにぼんやりとしていて、仔細を読み取ることができなかった。
ぐるりと見渡し、再び正面を向いたレーヴェは自分の前に差し出されている手をじっと見つめた。
ひとつ高い場所から細い指先が身じろぎもせず、斜めに差し出されている。肘から先は白い面紗に覆われていて姿形はわからない。ただ陶器のような白い手がレーヴェに向かって伸ばされていた。互いの距離はわずかだった。自分はきっと彼女―――きっと女性だと思う――に対して、その手をとって挨拶をしていたところだったのかも知れない。既に済まされた事か、これから行うのか定かではないが、その白い手を取らねばならない気がした。これは現実ではないとわかっているのに、気づけば手に触れようとして、急いで手のひらを離した。
手のひらを親指で押し撫でながらもう一度広間全体を眺めた。
(みんな止まっている、のかな……? 誰も動かない………これは…夢?)
壁際の樹木の青青しい香りも、柱の向こうに並べられている食事の匂いも感じられない。
残雪のような手をかたわらに、ただ一人動くことを許されている事実を思考する。
白昼夢に常に浮遊し続けているような感覚は怖くはなかったが、大層場違いのように感じられた。
「何を見ているの?」
「わっ!?」
面紗の中から透き通った声がした。




