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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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76 高め合う心と、

シャルルの機嫌が良い。肌で感じているレーヴェはそれがどれ程幸運か噛みしめていた。女中や従僕に囲まれて試着をしている今この時、レーヴェだけがそれを正しく理解できている。時折頬をかすめる指から与えられる熱や、彼がそばにいてくれるという事実がどれほど嬉しいか。顔が過度に綻ばないように力を入れても、それでも陽気な空気は包み隠せない。当然彼はそのように浮かれたレーヴェに対して刺々しい言葉を浴びせかけたが、それさえ苦も無く張り合うことができた。


仕事で培った社交性によって非常に流暢に交換される言葉の数々は、彼が他人に提供する最低限の奉仕であるともちろん知っているレーヴェであっても、そのすべてが偽善に寄る援助ではないと感じられた。

業務に没頭し、人生のほとんどを系統的に進めて、堕落を嫌う。彼を基礎づけるそれらの上には何も保存されず、彼のそばに寄るには、彼自身によって承認されるか否認されるか、秤に乗るしか術がない。そしてレーヴェが知る限りその秤を越えたのは一人だけだ。


心おきなく胸の内を打ち明けたレーヴェでさえふるい落とされた。あの日の自分のように、彼にも心の裡を明かしてもらうことを望んでいたが、試みはいつも失敗に終わっている。彼はレーヴェの幼稚な情に訴える手段を悪癖だと言ったが、そう捉えられている事が重要だった。常に胸襟を開き、情熱をぶつけて格闘した。そうすれば、いつかのように疲弊し、分厚い心の鎧を脱ぎ捨ててくれるかも知れない。シャルル以外でも、すべての人とそうして心を分かち合いたかった。その為に対話という最も簡潔な手段をとっている。レーヴェは定期的に意図して自分の気持ちを伝えた。いやというほど、馬鹿正直に言葉にした。シャルルににべもない態度を取られることがほとんどだが、苛立ちを引き出して論議に持ち込めることもある。ぶつかって、格闘して、彼を知っていく。昂りから涙が出てしまうのは中々直らないが、笑いあえる時もある。


まさに今のように。彼はレーヴェの向かいに立ち、情味のある顔をして頬にかかる髪を手ずから結んでくれている。

指の間に髪を分けて持ち、交互に組み替える。レーヴェは頭皮を強弱に引かれる甘い痛みを感じながら目を伏せていた。肌に触れる熱がどれ程幸福なことか、レーヴェだけが正しく理解できていた。一番望ましいことが目の前で起こっていると言いたかった。嬉しいと。けれど迂闊に言及すれば彼はたちまち離れてしまうだろう。どこまでも頑なで、脆く、歩み寄っていかねばならない存在。それでもうちとけて一緒にいるこうした時間が、すべてを覆す熱情をもってありつづける。


「顔を動かすな。うまく結べないでしょう」

「いッ、そんなに引っ張らないで……」

「何やら満喫しておいででしたので。何か?」

「いえ? いいえ、何も?―――――いてッ!」


「いい加減に」シャルルはそう言ってすぐさま顔を顰めた。可哀想な子供を演じたいなら痛がるよりももっと効果的なことがあると詰めてやりたかったが、背中を丸めたレーヴェがその場にしゃがみ込んだ。その異変に、シャルルはすぐに膝をついて顔を覗きこんだ。結んだ髪が、痛みをこらえる顔の前で揺れていた。


「…どうした、どこが苦しい」

「背中が」とレーヴェは繰り返した。背中にまわした腕で必死に背骨を抑えている。

シャルルはすぐに医者を呼ぶように女中らを振り返ったが、遮るように腕を掴んだレーヴェが大きく首を振った。振動でさえ痛むのか、呻き声が漏れた。


「及びません。最近よくあるのです……医師にも診てもらいましたが、成長している痛みだと……ですから大層なものではないのです。医者は呼ばずに」

「よくある? そういった痛がり方には見えない……動けるか」

「背中は今のまま動かせません」

「背中だけだな? わかった。体を」


シャルルはできる限り体を揺らさぬように慎重にレーヴェを椅子まで運んだ。座面に深く腰掛けたレーヴェは呼吸さえ怖れるように息を吐き、念じるように眉間に皺を寄せて痛みを誤魔化し続けた。バティストンも交えて症状の話をしたいところだったが、懇意の店とはいえ個人的な話をここですべきではない。

早急に切り上げて連れ帰るべきだとシャルルは脂汗のにじむレーヴェの顔を見たまま判断する。


「形がいいようですからお前はそれを着て帰るように。話をしてくるので、待っていなさい」

「いえ、大丈夫です! もう、少しずつ良くなりますので……」

「お前に必要なのは口答えではない」


これ以上話すつもりはないと手を払い、シャルルは幕の向こうに足早に消えた。

レーヴェは不安を表情に乗せて俯きながら、無意識にシャルルに編んでもらった髪を握りしめていた。背中はまだ痛むが、幕の向こうで何を話されているか気になり、意地で立ち上がる。

しかし天井から糸でくくられた操り人形のように不格好な姿でぴたりと固まったレーヴェに、女中たちは慌てて駆け寄った。


「寄りかかってくださいませ」

「デイビットここへ、貴方が一番力強いのだからお支えになるのよ」

「レーヴェ様お手をこちらに」


あらゆる努力を貫かんとする提案をあてがわれるも、レーヴェは不完全ながらもゆっくりと自分の足で踏ん張り、真っすぐに鏡の前に立った。


「すみません、ご迷惑をかけて……どうでしょうか、袖の長さや裾は、形は。シャルルさんほど着こなしてはいないとは思いますが、正直におっしゃってもふて腐れませんよ」


気持ちをくんで、女中たちはすかさず全身を確かめ、素早く目配せをした。


「問題ないかと存じます。どうぞお召しのままで」


レーヴェは脂汗をかきながら、彼が役立てうるすべてを使って笑顔を作った。見守る人々に痩せ我慢が見透かされていると、考慮することもできぬほど焦っていた。

釦できつく締められた首元が窮屈に感じて顔をあげると、鏡の中の自分と目が合った。






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