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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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72 世界と、

いくらレーヴェがそういった物から遠ざけて育てられたとしても、シャルルにとってとうの昔に捨て去ったものをまだ持っている事は理解できなかった。港湾事務所の仲仕たちは酒を飲みながらよく腕っぷしを競う。じゃれあいが本気の殴り合いに発展するのはいつものことで、それを何度も見ているだろうに、どうしてそんな言い知れぬ悲しみに満ちた目を浮かべているのか理解に苦しむ。ひたむきに業務をこなし、成人した男の顔になろうと努力するところは買っていたが、雨上がりの湿った空の下で蝸牛を見つけて人を呼びよせるような無邪気さは好きになれなかった。


馬車がのろのろと動いているのを良い事に、扉から半身乗り出しているレーヴェは何度もシャルルを振り返っていた。バティストンは御者窓から前を睨んでおり、レーヴェやシャルルの様子は気にも留めない。顔を顰めて不動の姿勢を見せていたシャルルだったが、重い溜息をついたあと仕方なくシャルルの傍に寄った。

身を屈めたレーヴェの肩に手を乗せ、空いた手で扉を掴んだ。顔を外に出すと、司祭のまとう香粧品の匂いが潮の香りに混ざっていた。


路傍は人の頭部と馬で埋め尽くされていた。白い司祭服は白波のようではあったが美しさはない。岩礁のように波に立ち向かう幌馬車が結局通りのあちこちで立往生している。とても視界が悪く、レーヴェが指さす方に目を向けたが何を見たのか知れなかった。


馬車は進んでは止まった。眼前を別の馬車が横切ったのでバティストンが怒鳴る。その時レーヴェの肩に手を乗せていたシャルルは、その肩が震えなかった事を奇妙に感じた。喧嘩にたじろいでおいて、バティストンの気性の荒さには動じない。かつての自分の姿が重なったが、つまらぬ妄想はすぐに捨てた。泥水を口にしたことも、死肉を口にした事もないだろう少年の艶のある黒髪を見下ろしていると、旋毛が微かに下がった。


「シャルルさん、見えましたか?」

「……何も」


レーヴェが断りを入れてから立ち上がる。また身を乗り出したので、シャルルはレーヴェの腰帯を掴んだおいた。


豪華な馬車の一団が横切った。幌に掲げられている教会の紋章はホルミス、シュナフが目立って、アクエレイルやロラインは少ない。龍下が到着なさるのはまだ先だから、それに合わせてこれからも人が増えるのだろう。今節の後半は出歩かない方が賢明だと考えていると、レーヴェがハッとした顔をして袖を引いてきた。


「理髪師の店の前。あれです、妙な格好をした方が並んで歩いていませんか。さっき何か殴るような仕草を…」


妙な格好―――目を凝らすと、鋼の鎧を身に着けた男が二人、並んで歩いていた。


「………もしかしてあの鎧姿の執行人の事を言って…はぁ…」

「よろい? よろいってあの? 先生に教えてもらったことがありますが、実際に見るのは初めてで……シャルルさん、そんな顔しないでください」

「お前が呆れさせるのが悪い…」

「では次がないように教えてください。執行人とはどのような業務ですか? 何かの番人のようですが」

「番人……そういった面もあるかも知れませんね。彼らは処刑執行人ですよ」

「は?」


レーヴェの世界は家庭教師の言葉や本によって形づくられている。

言葉のみで作られた世界は記憶に左右され、不確かで、実体をもたない。レーヴェの記憶はいつもあやふやだった。自分がどこで生まれ、どうやって生きてきたのかも知らない。


元々ぼんやりとした何も考えない性質だったから、不安に感じることもなく、ただ生を享受していた。レーヴェの記憶は母と、母の仕事仲間と一緒に過ごした日々から始まる。彼女らは長くゆったりとした外衣を羽織りながら、その下は裸か、薄い下着で過ごしていた。甘い匂いと、色の塗られた爪がとても綺麗で、指遊びをするレーヴェの上で化粧をした顔が入れ替わった。鏡台の並ぶ部屋は色に溢れ、常に誰かがそばにいて、遊び相手になってくれた。


何かを学ぶようになったのは、父の家に来てからだった。大きくて豪奢で、家の中に綺麗な庭もあった。家をうつっても可愛がられることは変わりはなかったが、遊んでくれていた女性たちは消え、薄着なのは母だけになった。鏡台に向かう背を見つめていると、鏡越しに目が合う。刺繍の入った外衣を引きずりながら母が抱きしめにきてくれることを願った。鏡越しにあった目が逸らされた瞬間、レーヴェは直感的に思い至った。この人は生みの親ではないと。


(じゃあだれなの?)


思えば誰よりも自分を知らぬということが、レーヴェの意識にいつも風穴を開けていた。


レーヴェは結局家から家に移動しただけで、行動できる範囲は限られていた。

教師が教えてくれた言葉の数々が外の世界を教えてくれたが、分からない事ばかりだった。


理力――――

不思議なちから。人は体内にちからの源を持って生まれ、大なり小なり引き出して使う事ができる。先生は指の先に火を灯した。まるで指先が蝋燭になったように。炎は指先から少し離れた場所で揺らいでいる。体内でどんなことが起きているのか、次々に質問を口にした。温かな炎をいつまでも見つめ続ける初心さを笑われる。自分もいつか、期待した。けれどいつまで経っても理力を使う事は出来なかった。


種族――――

体の表面に現れる外見的特徴。羽、角、尻尾、鱗、牙、爪、様々。父も母も、家でお世話をしてくれる人たちも、先生でさえ種族を持っている。けれどレーヴェの体には何の特徴もなかった。どこも柔く、丸い肌。低い体温。私はなんなのだろう。


教会――――

人々を愛し、施しや居場所を与える救いの場所。けれど救いを必要とするほどの身を切るような欠落がどうして存在するのかわからなかった。世界がそれほど愛に溢れているというなら、教会はどうして数を増やしていくのだろう。


様々な知識を身に着ける度に安堵を感じながら、半面では飢餓を感じていた。知る程に納得できないことが増えて、家中の本を読み漁った。


商会の業務にのめり込んだのは、そういった渇望を埋める手段のひとつだった。その道程で、シャルルが身を置く低劣な環境を変えたいと思ったのは純粋な厚意だったが、突き詰めればその行為自体は自分の為という不純さがあった。


「……自分を捨ててしまわないで………」


あの夜、嗚咽が混じりに告げた言葉は、自分が手にできない「自分」というものを確立させている者への羨望と、一切を泥の中に捨てようとしていることへの憎悪だったのかも知れない。よもや始まりは意味はなく、今という道を走っていた。


「鎧の男が紐を引いているのが見えますか? 麻の袋を引いているのですが、その中に罪人が入っています。引きまわしながら、剣で刺し、槍で突くのです。殴る者もいるので、貴方が見たのはそれでしょうね」

「何を……何を………」


平然とした声と鮮やかさを失った声が馬車の中に転がった。






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