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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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71 流れゆく声と、

咳ばらいを一つ二つ吐き出しても体の奥に違和感が残った。爽快感を得るどころかレーヴェの気持ちはどこか沈んでいく。


がたんごとんと上下する箱の中、長細い窓を真横に流れていく風景は人々の顔を素早く遠ざけ、自分だけ進む速度が異なったまま時間という波に運ばれているような感覚がした。このまま時の船に乗っていれば、向かいに腰かける父上の顔は皺だからけになるのだろうかと想像したが、空想は靄のように掴みようがなかった。


港にいる仲仕や事務所にいる職人もそれなりに歳を重ねている者はいたが、バティストンの体躯は飛びぬけて大きく若々しい。父が老けた姿は想像ができなかった。これが家庭教師に教わった種族差かと、今度は隣に座るシャルルを見遣る。彼はギンケイらしい細い体躯で、出逢った頃より更に落ち着いた顔で姿勢ただしく腰掛けている。手帳をめくる姿さえ様になっていたから、これからも美しく歳を重ねていくのだろう。


二人を交互に見るとレーヴェは自分の成長が少し遅いことが気にかかった。シャルルによれば歳が十も異なるらしいが、背がもう少し伸びて欲しいところだ。肉料理の量を増やしてもらうようにお願いをしているが、いくら経っても父のような筋肉はつかない。力仕事もするようになったけれど運動が足りないのだろうか。肉の栄養はどこに消えたかわからない。ギンケイも筋肉質ではなさそうだとシャルルを見ると、切れ長の瞳がこちらを向いた。眉が吊り上がっていたので、(あ、叱られる…)と、ぱちりと瞬いてレーヴェは膝の上に拳を置く。大人しく怒られますという時の姿勢だ。


「なんですかその咳は。体調管理を怠るなと普段から言っている筈ですが、その頭は何も記憶できませんか?」


ふふ、思わず笑ってしまう。いつもの口調だ。ジョットさんに似ていると言いたいところだったが彼に金輪際口にするなと言われているので飲み込む。

額に冷たい手が触れた。咳をしただけで大事だとは思ったが、確かに体温は高いようだ。シャルルは機嫌が悪そうに刺々しい顔をしていたが、実際はとても優しい。離れていく優しい手を名残惜しく見つめ、首を振る。


「いえ、少し喉が痛むだけです。こうして業務以外の外出も久しぶりですから、帰ろうなんて言わないでくださいね。ずっと一緒にでかけたかったのですよ」


このまま馬車に揺られ、街の外まで足を延ばしたかった。馬を車から解き放って遠乗りをするのもいい。彼らだって全身を縛る重荷もないまま、風のように走ることを恋しく思う事もあるだろう。その背に乗って思うまま走りたかった。実は騎行の経験はなく、一人で跨ったこともなかったが、世話焼きのシャルルならば不器用な自分を哀れに思って騎馬の作法を教えてくれるだろう。彼の小言を流しながら、手綱を引く自分はしっかりと想像できた。下手だと何度も言われながら声をあげて笑う。幸せそうに。


「……また取るに足らない事を考えているのでしょう。その締まりのない顔はやめなさい。お前は何事も感情のままに言葉にすればいいと思っているし、顔に出過ぎる。その悪癖を自覚して直しなさい」

「この歳まで直らぬのなら悪ではないという事なのでは?」

「口答えをするな。お前の為に言っているのです。表情一つですべて筒抜けになると言う事は苦労を自分から招くということ、それはお前の為にも商会の為にもならない。わかりませんか?」

「確かに……はいっ、肝に銘じますお兄様」

「お前の兄ではない」


父の前だというのに随分と砕けた言葉を使ってくれるようになった。その辛辣さは愛だと彼は気づいているだろうか。昔は父の前で私の事を口にすることなどなく、空気のように扱っていたのに。


今では、苦労を買いすぎるシャルルから業務を少しずつ任せてもらえるようになった。レーヴェはもう帳簿も読める。計算器も使いこなせるし、商品の適正価格も言えた。商会の後継ぎとしての資質を培いながら、シャルルと良い関係を構築できている事は思い描いた道を歩いてきている証だった。

地下の部屋で掴みあったあの日から、随分経った。唯一の心残りはまだ兄と呼ばせてもらえない事だったが、その日も近い気がしていた。


「あれ、何をしているのですか」


レーヴェは思わず扉を開けた。

馬車は中央広場の環状の道に出たところだった。普段は馬車が詰まることはないが、今節は「教会主義者同盟」の大会期間、各地から集った神父・司祭の乗った馬車と、彼らをもてなそうとする市民、書き入れ時とみて出店している数多くの屋台で、広場は石畳も見えないほど混雑していた。

そんな中に突入した馬は前の馬車に鼻をつけそうになるほどで、御者が道をみつけようと必死に手綱を操作している。


バティストンは後ろの壁を叩き、御者を怒鳴りつけた。シャルルは何も言わなかったがバティストンの顔色から、新しい御者を手配しておく必要があると察する。


「てめぇ何節この都市に住んでやがる!この時期に広場にくるなんて、分かり切ってる事だろうが!」

「へえ。へえ、ちょっとお待ちくだせえ」


斜めに顔を見せた御者はへこへこと頭を下げた。懐から眼鏡を取り出したのでバティストンは思い切り舌打ちをした。


「……レーヴェ、いつまでそうしているんです。扉を閉めなさい」

「シャルルさん、あそこで喧嘩が」

「そうですか、早く閉めなさい」

「そうですか? どうして。ここへきて見てください」


喧嘩? それがどうしたというのだ。シャルルは苛立ちを顔に乗せた。






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