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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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70 耳飾りひとつと、

かたわらにある筈の弟の顔が消え、スベルディアの体は氷床の一部になったのかのように冷たくなった。

半ば開けられた口はやがて弛緩して、糸が切れたように顔から生気が抜けていく。代わりに目元に集まる涙が、悲しみの発露であることは言うまでもない。


「……兄上」


やや間を置いて、トリアスが言った。

労わるような目をした弟に手を握られていることに気づく。


「豪雨の後には太陽が輝く、それがあの子の信条でした。忘れはしません」


心穏やかな目は重ねた手をちらと見て、またこちらを見た。胸に抱いた赤子に祝福を授けるように優しく指の背を撫ぜるトリアスは神父らしく見えた。ゆっくりと指が離されて露わになった自らの手の中に、何かあるとスベルディアは気がつく。

四枚の爪の下に隠されたそれをそっと指で押すと、厚い肉の上で硬質さが主張する。それはスベルディアの太陽であり、月だった。手中にあるものに気がついた時、枯れた庭となった心に一輪の花が芽吹いた。


肩をすくめ、手を胸に押し抱く。指先に石が触れた。

月の光をとどめた一滴の白が心に浮かぶ。


(あぁ……)


やり切れない気持ちになった。弟を疑ってしまった事も、こんな小さな耳飾りにつながれて離れられない我々の、何より、あの子の今生を。


そのまま胸の前で手を重ね、額を指に押し付ける。


「どうか………あの子に奇跡が降り注ぎますように」


頭を垂れて強く祈ると、トリアスの衣擦れの音がする。祈りの言葉が続いた。

目を夜空の彼方へ向けて、夜の中に無数の情念を放った。天は何も還さず、ただ在り続ける。けれどそれで構わない。希望を口にするだけでは輝きを取り戻すことができない事は、とうの昔にわかっていた。


「移動しましょう。続きは宿の中で………これは私が預かっていましょう」


耳飾りをもった手を少し挙げて見せる。怖ろしくてこの場で見る事もできない。

気付けば空いた手で自分の片耳の飾りを撫でていた。


「だめですよ。私の腕や足がもがれようとそれだけは」

「…なら、ここお付けなさい」

「そう来ますか? いいですよ、気の済むまでご覧くださいな。そんな風に不安で押し潰されそうな顔を見せられては、忍びないですからね……ほら手を。兄上? 手の中のそれは、私の、です」

「離しがたいだけです………そのような顔をしていましたか?」

「それはもう情けない顔をしていらっしゃいますよ。目の下も黒々と。いつも安らかに眠っていらっしゃいますか? 私たちの羽根はもうすぐ毟られてもおかしくはないのですから、今のうちにお体御自愛くださいね」

「そうはなりません……必ず私たちは……」


トリアスはやや顔を斜めにして、耳朶に飾り石を嵌めた。

留め具の調整を終えて指を離すと、兄はこちらを見ているようで見ていない。凝固したまま思考の旅に出ているようだった。今なら去勢牛の引く荷車で運んでも暢気に隣の街まで行くだろう。

昔から一つの事にしか心を向けられないこの人は、夜空にあの子を運び込んでいるのだろう。


(まぁ……気持ちはわかりますよ、痛いほどにね…)


耳飾りというほんの僅かな物を付け足しただけで、心が異なるのは偽れない。トリアスは長い旅路を終えて、ようやく肩の力を抜いた。

飾り一つで兄があそこまで心胆を寒からしめるのも頷ける。自分でさえ、ほやほやと路傍で食事をしている兄を見つけた時、真っ先に耳にあるべき白を見つけようとしていた。

互いの耳にある白は、あの日欠けてしまった心を補ってくれる唯一のものだった。


思考の旅から中々戻ってこない兄を置いて、餡かけ熟瓜の入った皿を拝借する。餡のおかげでまだ少し温いのが有難い。懐かしい味だ。故郷とは味付けが違うが、熟瓜は変わらない。


(ねえ、兄上。この料理、あの子にも食べさせてあげたいですね…)


兄に聞かせた旅の話は表層で、実際は惨憺たる有様だった。都市部以外は賊と獣が蔓延る危険地帯。街道でさえ夜の通行はできず、命がけの旅だった。気をつけても運悪く賊に遭遇してしまえば、身ぐるみを剥がされても、耳飾りだけは秘して守り抜いた。

けれど耳飾りのついた耳朶ごと斬られてしまった時はどうすることもできなかった。傷は治せる。巡礼神父の理力は一般のそれより多い。けれど一時とはいえ手元から離してしまった事は、一生口にするつもりはなかった。


地面に転がった自分の肉片を掴んだ時、追撃者の斬撃の範囲にいた。耳飾りに残った理力が爆ぜる。土埃から夢中で駆け出し、森の中に飛び込んだ。まだ敵の足音が聴こえる。このまま斬りつけられ、腕を切断されるくらいなら耳を口に含んだ。冷静だった。冷静に、気が触れそうだった。歯茎を押す軟骨の感触と血の味に吐き気を催しながら、木の根を飛び、地べたを這い、川に潜った。


簒奪者を撒いたあと夜明けの遠い茂みの中で、涙と汗でぐしゃぐしゃになった口から真っ赤な涎を吐き出した。ぼとりと耳が落ちて、確かめなくてもいい産毛を見て寒気が走る。血のべっとりついた手で耳飾りを外し、小さな小さな耳飾りを胸に抱いた。胃の中が何も無くなるまで吐いて、また歩き出した。


熟瓜を口にする。これは耳ではないと、一瞬確かめなくてはならなかった。

兄にはほとんど明かせない事ばかり。それでも、この旅はしなくてはならなかった。


「トリアス?」

「………歌が聴こえませんか?」


通りに踊る人影はなかった。隣の通りか、どこかの宿からか、微かに聴こえる。陽気で浮ついた、寂しい歌が。


「………一緒に歌いますか」

「いいのですか…!」

「今日くらい」

「えぇ。今日くらい」


二羽の美しい鳥が、歌を歌った。

二人が久しく待ち望む過去と未来は、もうすぐ彼らの前に姿を現そうとしていた。

旋律に混じって愛しき者の足音は確かに近づいていた。






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