07 無理解と、
届いたのは、息をのむほど穏やかな声だった。咄嗟に亡骸を振り返る。そこには変わらず頭蓋が転がっていたが、音の主は彼だと心が告げている。
骸を凝視する神様を再び音が包んだ。
―――私は彼らをにんげんと呼んでいます。彼らもとても喜んでくれたんですよ。
聴いたことのある言葉だった。この音をやりとりしたことがある。
記憶を探る神様の視界の奥、白骨した骸の後ろの風景がにじんだ。漂っていた霧が形を変えて、白い龍を描きだした。
その龍を見ていた神様はある位置で悟った。先程の言葉は遠い昔に彼が口にした言葉だった。この仄暗い住処で彼は奇妙なことを言った。記憶が鮮明な形となっていく。
洞穴に住み始めて数千年の時が過ぎた頃、彼は洞穴の奥で羽ばたいた。その音は「ようこそおいでくださいました、わが家へ」と誇らしげで、神様は舌を噛みそうになってしまった。
骸の向こうで揺蕩う幻の龍が、今はっきりとあの頃の同じ笑顔を浮かべながらこちらを見ている。
美しいとも相応しいとも世辞でもいえぬ渇いた洞穴だが、久方ぶりに逢った彼の舌は乾きを知らなかった。楽しそうに地上での話を並べ立てるので、天上に戻って来いと言うつもりだった言葉をまた飲み込むこととなった。共に天上で暮らし、そばで生きて欲しかった。しかしここまで喜色に満ちた瞳で地上を見つめる彼を見ているのも、悪いことではない。
紡がれる物語のなかにとある奇妙な生物について言及があった。眼前に存在する幻が笑いながら「にんげん、ですよ」ともう一度念を押す。これは遥か遠い過去から響く記憶だ。
(にんげん? そなたが名を贈ったと言うのか)
かつての私の問いに彼は淀みなく首肯した。
それだけではなく、愛おしそうな表情すら浮かべた。
この世界で龍の音を響かせ、言葉を交わすことができるのは我々以外に存在しない。だというのに、名を渡し、喜んだと言う。信じがたい――懐疑が鋭い視線となる。
しかし彼の笑みは私の無遠慮な視線を受けても崩れず、そればかりか更にこんな事を付け加えた。
(そういったお顔をすると思いましたよ)
ならば聞かせねば良かったのだ、語気が荒げる。
反対に彼は穏やかに笑う。
(私は貴方から生まれ、貴方と語らい、音を理解できる唯一の続合。けれど輪の外の命と分かり合えないわけではありません。貴方様も天上で共に暮らす花や葦たちと想いを通わせることができるでしょう?)
かぶりを振る。
(正しくはない。彼らの心は知れても、彼らは私の言葉を解さない)
(まぁ! 悠久の節を生きていらっしゃるのにそこまで疎いとは思いもよりませんでした)
(………なんと?)
理解が遅れる。
(だって貴方様はとうに心を通わせておいでなのに、そのような事をおっしゃる。彼らは貴方様を敬慕している。地上には毎夜星が降りますよ、貴方様を想う心の残滓が星屑となって降り注ぐのです)
(そんな恣意的な解釈は通らない)
(この心を独善的な気ままな振舞いとお思いですか? 夜空に降る星を見上げながら私が貴方を想う事も?)
二つの尾が絡み合う。白い尾が黒い尾の形を確かめるようにゆっくりと根元まで辿り、そのまま背骨に尾が乗った時には白い龍の顔がそばにあった。
(……私は貴方様の魂から生まれ出でた番。似て非なる従物……それが途方もなく嬉しい。異なるから貴方を愛することができる。でも――)
彼の表情が初めて歪んだ。
(口惜しくもある…………私は貴方を愛しているのに、どうして貴方に成りたいのでしょう。貴方様のようにたくさんのものを愛し、与えて生きていきたいのでしょう。この飢えはどのように凌げばよいのでしょう。だからどうかお許しください……どうか……私が与え、愛することを)
前肢が触れあい、お互いの熱が混ざり合うように―――彼はそう言いながらしな垂れる。
しばらく寄り添い、互いの熱を分け合いながら神様は考えていた。
(愛など――)
彼がまとう音色は寂しく響いた。美しく哀しい音だった。多くを愛する――そんなもの理解できなかった。愛したつもりなどなく、創造をしたに過ぎない。
長雨の果てに、水を含んだ枯れ木がとうとう地面に倒れたとして、
雪の重みに枝が折れたとして、
成虫として生きる期間の短い虫が最後の鳴き声を発したとして、
創造物、それ以外の何ものでもない。
神様は初めて他者を介して自分の輪郭を感じた。数万年の時を重ねた彼は、だからこそ許しを請う龍にどんな音を返せばよいのか見当もつかない。
ふと、眼前の壁の一部が変色していることに気がついた。陽光があたって白く光る壁面に初めて目が行った。
(あれは…?)
顔をあげた彼は私を見上げてから、視線の先を追う。あぁ、と柔い声を出しながら首を起こした。
(絵、ですよ)
(絵。其方が創り上げたものか?)
(あれを創ったのは、にんげんです。にんげんが描いたものです)
壁面を見つめる彼の眼差しの優しさを覚えている。
そこに描かれていたのは、翼を広げる首の長い生き物だった。誰を描いたものか、考えるまでもない。彼は絵の中で生きていた。そう思えるほど、鮮やかで豊かな線の連なりだった。
(……にんげん…)
身の内を静かに駆け巡った震えに彼は気がついただろうか。
この世界を創造した時、箱庭を描いたこの鉤爪と同じように、にんげんは【創造】を始めていた。
肉を食らい、繁殖し、眠るという種族延命の行為をおこなうものは多くいる。しかしこれは他の生物とは明らかに異なる――【進化】といえた。
無意識に引き絞っていた喉から、吐息が漏れ出る。嘲笑でも否定でもなく、しかし言葉にできぬ感情が吐息となって喉を圧迫する。
白い龍は黙って壁画を見つめていた。
その横で四つの音を反芻する。【にんげん】というその奇妙な響きは神様の耳にしばらく残り続けた。