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69 喧騒の中の兄弟と、

「おねえ、片付けは!?」


妹の鋭い声が耳から耳に抜けた。

腰に衝撃を受けた姉はあわや机を倒しかけたが、前に突き出した手を司祭さまが支えてくれたおかげで事なきを得た。料理も零れていない事を確かめたが、もし火傷を負わせてしまっていたら、父の「粗相があっちゃいけねえって言っただろ馬鹿娘が!」という罵声を浴びるだけではすまない。


丸盆でお尻を叩いてきた妹を、射貫くように獣の形相で振り返るが、妹も唇を突きだして、顎をしゃくる。その素早さと眉間の皺にひるんでしまう。空になった皿や茶わんを回収しないといけない状況であることはわかっている。紫硝子の司祭さまとずっと喋っていたいなんて思ってない。(…でももうちょっとだけお話したかったんだもん)頭の中で言い訳をすると、妹は息をふっと吐いた。(あっ、叱られるやつ!)と、いつもの逃げ癖で大急ぎで角を隠す。


「立ち話してると思ったら、顔の良い男にべっとりしちゃってさ。何よ角なんて隠して、ここで研いで欲しい訳!?」

妹がぶんと頭を振る。妹の角の方が大きくて立派なので、角研ぎされているのは私の方だ。

「やっ…! う、しっ、司祭さまの前で失礼なこと言わないで!」

「はっきり喋んなさいよ! 先に私にごめんなさいでしょ! 司祭さまはいーっぱいいるんだから、私にばっかり働かせるつもり!? 父さまからのお駄賃私の方が多くもらうからね」

「うっ…ご、ごめんなさいぃ…そんなに怒らなくったって…ごめんねぇ」

「料理がとても美味しかったので、私が引き留めてしまったのです。私も、ごめんなさい」

「えっ、司祭さま、そんな」

「ふーん、あっそ」

「こら! もう…騒がしくして申し訳ありません。ごゆっくりしていってくださいね。あの、しばらくこちらにお泊まりですか…?」

「おねえ!」

「は、はいっ! 今行きますーーっ!」


欲求を理性で押し付けた目で娘は離れていった。丸盆を片手に乗せた若い二人が、指で操られる人形のように右から左へ忙しそうに飛び回る。街並みの灯りを背にした眩い舞台を見ているようだった。司祭は再び熟瓜を匙ですくうと、煮込まれて柔くなった果菜を口に含んだ。


「飛び回る蜜蜂のように貴く従順な娘たちですね」


どさりと重い音をたてて大きな鞄が置かれた。革袋の横の見知った礼装と声は、顔を見つめずとも愛おしい。匙をもう一口、笑う口元に運ぶ。


「美味しそうな"まくわ"ですねえ。故郷の熟瓜のことですよ、ご存知でしたか? 知らなかったでしょう、そうでしょう、兄上」

「ふふ。先程まったく同じ話をしたところですよ。到着は朝のはずでは?」


大会初日に間に合わなかったことを暗に問うと、「それがもう波乱曲折ありまして!」と、立ちくらんだような小芝居をしつつ対面に腰かけた。いつの間にか椅子を引いたのかと足元を覗いてみると、自分の荷物の上に座っている。


巡礼に必要な道具が収められている背負い鞄は留め具が使えないほど膨れ、縄で全体を縛りあげることでようやく一塊になっている。横に吊るされているワラビ束と大根にはまだ土がついていて新鮮だ。今回も大変人に好かれた愉快な旅路だったのだろう。兄の穏やかな視線を察した弟はにっこりと笑う。早く話をしたくてたまらない時の顔をしていた。


「豊作ですね。巡礼神父から農地勤めに職替えをしたのはいつでしょう? 弟が進むべき道を見つけた事を神に祈らねばなりません」

「お待ちください? 兄上わたくしは、確り、はっきりと、上から下までこの通り巡礼を続ける敬虔な神父のままですよ。ほら見てくださいこの使いこんだ靴を。同じに見えて三足目です!」

「ふは、…もうお前は…。お話を聞くのが楽しみですよ。でもその前に、確り、はっきりした神父様と再会を祝して」


水入りの杯を軽く揺らし、一口。

そのまま弟に手渡し、こくりと飲み干す様を見つめる。


久方ぶりに逢う弟は幼少より変わらない口の速さと、面白さを培ったままだった。各地を転々とする巡礼の道は険しくつらいものだが、元気にやっていることは翼のような髪の艶からわかる。ギンケイは肉体的あるいは精神的な体調が髪質に出やすい。


長身痩躯の似た顔が向かい合っているから、通りすがる人は何事かと振り返っていた。私たちはしばらく巣に帰った鳥のように翼を閉じて、互いの声だけを聴いていた。


弟は、アクエレイル、シュナフ、ホルミスの各地方を時計回りに移動し、教会や気の良い信徒と巡りあいながら、長い旅をしてきたのだという。時には身ぐるみを剥がされ、獣に追われ、貿易船の船倉に押し込められたこともあった。めくるめく大冒険を謳いあげる弟は、道化師のように所作が練達しており、観客が兄一人でも身振り手振り楽しそうに話してくれた。あの頃はもう一人、大切な人がそばにいた事は、きっと弟も思い出している気がした。


「……そうですか、よく命がありましたねえ」

「私は本当に人に恵まれる星の元に生まれたような気が致します。この旅でアクエレイルに満ちる愛を感じました……この果菜の数々は道中で物々交換をした成果なのです。最初はなんと私の耳飾りひとつから始まり」

「……お待ちなさい――なんと?」


耳飾り――――――


目の覚めた心地で弟の耳元に手を伸ばした。長い髪を幕を引くように指先で退けると、耳朶にあるはずの光は失われていた。






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