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68 宿屋前の喧騒と、

教会主義者同盟・第九回大会は、前回の大会で確定された通り、今節も変わることなく芽吹の節・馬の日に開始された。


今回の開催地となった海港都市には、各地方から多くの司祭が集まり、教会・宿・船上あらゆる場所で教会人をもてなす宴が開かれていた。夜の闇でも覆い隠せない面影の重なるうねりは、普段は人の出入りが余りない通りにまで及び、そればかりか路傍で立ち話をする教会人がいれば、椅子を持った女子供がどこからともなく現れ、司祭が礼をいうそばから今度は大皿料理がやってくる。


風が強く吹いた。海街特有の風は、柱の梢に吊るされた看板を揺らしたが、彼らの耳朶には響かない。向かいの宿からも賑やかな声が聴こえて、また一人外に出てきた教会人が腕を引かれてやってくる。この様子では、洗濯屋の看板も机にされ兼ねない勢いだが、大会開催地となるということはそういう事なのだ。


龍下さまを始め、忠実な教えの番人である教会人は、国民に幸せと栄えをもたらしてくれる。秩序はあまねく人々に通じ、人々は教会を慈しむことを躊躇わない。

今この時も、教会の威光は光り渡っていた。


「とろみのついた餡と熟瓜がとても美味しいですね」


前掛けをつけた仕立屋の娘が振り返ると、白麻の司祭服をきっちり身に着けた男が笑顔を浮かべている。性格を表す様な正しい姿勢と綺麗な所作に、思わず「はわ」と感嘆が漏れてしまった。柔和な笑みを浮かべた司祭の手元には昨日から下準備をした自慢の料理があって、娘は飛び上がるほど嬉しかった。薔薇色に頬を染めて礼を言った。


大会期間中は見知らぬ土地の教会人で溢れるため、父親からは「粗相があっちゃいけねえから喋るんじゃねえぞ。お前は愛嬌はあるが頭は足りねえんだから」と私語をかたく禁じられていたが、父の目も届かない今、好奇心には勝てない。それに(ちょっとくらいお話しなきゃ、遠くから来てくれたのにそれこそ失礼じゃない!)と、頭の中で言い訳をして、娘は喧騒の中心から少し離れて座る司祭のそばに寄ったが、抱えた丸盆でさっと顔を隠してしまった。


近くで見ると、紫硝子のような瞳が余りに綺麗だったからだ。


(どうしよう!)と、どうもしないのに戸惑っていると優しい声で「お嬢さん?」と心配そうな声がする。(お、お嬢さんだって!)ぶっきらぼうな海の男が多い街で、そんな風に呼びかけられたのは初めてだった。喧騒に混じってしまうはずの落ち着いた低い声が、娘にははっきりと聴こえていた。


こわいくらい顔が熱い。耳に掛かる髪を梳いて、呼吸を整え、丸盆から少し顔を出した。紫硝子の瞳はとろけて「良かった、顔を見せてくれましたね」と口元が動いた。今度は「はわ」と言えなかった。これは路傍で見る夢だ。現実から切断する魅力に飲み込まれそうになる。

娘はなんとか下唇を噛みしめて自分を立たせた。


「えっと、あの、しゅっか? しゅっかって何のことですか?」

「こちらの瓜のことですよ。熟瓜……もしや、こちらでは、別の呼び方なのでしょうか」

「あ! そうです、この辺りだと、まくわ、って言うんです。司祭様はどちらからいらっしゃったのですか?」

「ロラインから参りました。不思議ですね、シュナフやホルミスとは違って地続きなのに……何か?」


娘はバネに弾かれたように司祭から離れた。「す、吸い込まれちゃう…」と丸盆の裏で呟いた声は司祭には聴こえない。

彼が首を傾げると柳のように長い髪が垂れる。頭頂と先端で色の異なるギンケイの髪は艶があって煌めいていた。娘は無性に、自分の角の根っこの部分がかゆくなった。熱くなった首筋に手をあてて誤魔化していると、給仕に奔走している妹の声が聴こえた。聴こえない振りをした。


「ろ、ロラインなんて私行った事なくて……ここみたいに大きな街があるの? あっ、あるんですか?」

「えぇ、ロラインに大きな湖があるのはご存知ですか? 氷に覆われた湖のほとりにロライン家の屋敷が建っていて、そばに湖畔の街があります。高地にあるのでとても寒いのですが、透き通っていて美しいのですよ」

「透き通っている?」

「氷です。ロラインの湖は透明の氷に覆われているのです」

「……え?」


想像した娘は、考えて、それでも戸惑った。


「透明なら、見えないんじゃ……見えないなら普通の湖、みたいな……あ、ばかにしてるわけじゃなくて…! ごめんなさいっ」

「大丈夫ですよ。おっしゃる通り、光りの加減で本当に見えなくなることもあります。でも傍によると氷があることはわかるのです」


それに、と司祭は整った顔立ちを伏せた。睫毛の影が落ちて、笑っているのに悲しそうに見えた。故郷を思い出す人が見せる顔だった。


「湖の上でおこなう儀式があるのですが、空気の張り詰めた朝に透明な氷の上に立つその人の背を見ていると、測り知れない美しさがあるのです。その光景を見る者には永遠が約束されるのです……」

「永遠……」


娘は感嘆の余り、夜空を仰いだ。

海港都市から出たことは無い娘にロライン地方の湖や儀式の話は遠く、物語を聞いているようだった。同時に胸が締め付けられる。司祭さまが見つめた背中は誰だったのだろう。娘の頭の中では、美しい女性が描かれていた。愁いのある横顔はその人を思い描いているからだろうか。

もっと話を聞きたい。娘は街の話をねだった。どんな話でも構わなかった。






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