67 あの日の潮騒と、
荒波が奇岩にぶつかって砕けた。
砂浜に打ち寄せる貝を拾っていた少年は、桃色の貝を摘まみ上げる。夕陽に翳しながら指先の角度を変えると、虹色のかがやきが少年の頬を飾った。
空の果てで白く物悲しく燃える日輪は、半身を海に浸し、別れを告げるように震えている。
山向こうへ寄港する船をしばらく眺めていると、笛の音が響いた。岬を迂回して進む船団の合図だろうと察したが、奇岩の向こう、難破した巨船から亡者が呼んでいるという話も思い出した。村の大人は、夕暮れの笛を聞いたら海から離れなければならないといっていた。理由をきいても教えてはくれない。振り返ってはいけないとだけ何度も聞かされている。
もう一度笛の音が響いた。少年は動かぬ船をじっと見つめた。
音はそこから聴こえている。
海上に突き出た朽ちた船首を波濤が覆う。甲板から白波を吐き出しながらまた浮上することを繰り返す。船はまだそこに在る。
無心で見つめていると、少年を呼ぶ声があった。
振り返ると、朝市通りに続く道に親友の姿があった。鼻骨に残る傷跡が、いかにもやんちゃな風格を漂わせているが、村で一番のお屋敷に住んでいる。人好きのする笑顔でもう一度名を呼ばれて、少年は右手をあげて合図した。
彼は木登りが得意で、枝ぶりが見事な大木に登っては、塀の向こうに抜け出してしまう。家の人たちは彼を探して村のあちこちを行き交うが、彼は決まって少年の元を尋ねてきた。あの様子では今日もまた屋敷の裏手から、用水路を抜けて、海まで来たらしい。
「帰ろう」と手招きされ、少年は笑ってしまった。兄弟がいたらこんな気持ちになるのだろうか。
砂浜から小さな坂を駆けのぼる。彼はにんまりと笑うと少年の頭をくしゃくしゃにするほど強く撫でた。
「今日はここにいたのか」
「うん。今日はどうしたの」
「歴史の授業。つまんないから」
「だめだよ。勉強はしなくちゃ」
「あんなもの勉強じゃないさ。支配者階級を打ち倒す革命とか、団結とか。そういう話ばかり。俺を洗脳したいんだ」
「……それは、………勉強じゃないかも」
「そうだろ」
「でも……だめだよ」
「どうして。俺が会いに来ちゃいけないのか?」
「だって」心を抑えてしまうと、言葉がでてこなくなった。昨日、君の家の人がきて、君を探しに来たんだよ。でも母様は知らないって言ってくれたんだ。その話をきいたときね、僕はなんとなく胸が痛くなった。母様、嘘ついてくれた。嘘はついちゃいけないっていつも教えてくれるのに。でもそんな事話せないよ。彼を悲しませるのは嫌だ。少年の心は痛みだした。うんうんと呻っていると、そのうち彼は淋しい笑い方をした。
結局そんな顔をさせてしまった。少年は彼の前に立って、正面から必死に首を振った。
「ごめん、ごめんね。あのね」
「うん……いいよ、もう言わないで」
「ごめん。怒らないで……」
「このぐらいで怒るか」
細くうねった道を歩きながら、彼は少年の手を引く。
高い石垣の横を無言で歩いていく背中を見つめていると、ぽつりと彼が言った。
「抜け出すとさ、夕飯抜きにされて、叱られるんだ。でもそれで終わり。次の日にはまた別の先生がきて、また逃げる。それをずっと繰り返すのかな………」
不安の種をどうすればいいのか少年にはわからない。
代わりに手のひらを強く握り返した。
「あっ! 貝殻!」
「なんだよ、びっくりした」
不意に手が離れた。彼の向こうに、村へと続く橋が見えている。家並みが木々の向こうで、灯りをともし始めている。
「貝殻集めてたのに、忘れてきちゃった。戻らなきゃ」
「一緒に行く」
「いいよ。おうちに帰る時間だよ」
「やだね。まだ話足りない」
「じゃあ僕急いで取ってくるから、橋の所にいてくれる?」
「お前のうちで夕飯食べてもいいなら」
「えっ………それは母様に聞いてみなきゃわかんない…」
「んー、わかった、ほら、早く。暗くなるぞ」
「うん、じゃあ、またね。すぐ戻るね」
「いいよ。急ぎ過ぎて転ぶなよ」
駆けだした少年は一度だけ振り返った。
小橋の手すりによりかかっていた彼と目が合う。彼は少年の背をちゃんと見ていた。彼は何かを叫んだが、自分の呼吸ばかりが耳に入った。それでも応援されていることはわかった。
海はすっかり暗闇になっていた。
下衣に入れておいた草花を取り出すと、手のひらでこすり合わせて、小さくまとめる。青い匂いにすんと鼻を鳴らしながら、腰に下げた角灯を帯から外す。
蓋をあけて、先程こねた草花をぎゅっと搾り、中の液体に汁を落とした。
重ねた指の隙間から最後の汁が落ちきる前に、液体が輝き始めた。
足元を照らしながら砂浜を歩いていると、すぐに貝殻袋を見つけることができた。中にはたくさんの貝と、岩場で見つけた生き物が入っている。焼いて食べるととっても美味しい。親友にはこれを食べてもらえば、きっと母様も一緒に食べていいって言ってくれる。
桃色貝もちゃんとあった。母様に首飾りを作って渡すつもりだった。いつも優しいだいすきな母様に。
「帰らなきゃ」
母様のところに、親友のところに。ざり、砂が鳴る。
少年の耳に笛の音色が聴こえた。
しばらくして砂浜に、一人の少年がやってきた。
夜闇の中で、砂上が一か所明るくなっている。なかば埋もれていた角灯を持ち上げた少年は、親友の名前を叫んだ。
「レーヴェ!!!」
波が大きい音を立てた。夜が騒ぎ立っていた。




