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65 最後の賭けと、

「商人らしく、契約しませんか」

「……口約束ほど無益なものはありませんよ」

「そうおっしゃると思いました」


均衡のとれた顔を緩め、少年は軽く頭を振った。砂が落ちたように見えた。額にかかる前髪を払い、頬を袖で擦り上げて、再び顔をあげた。しとどに濡れた顔は精悍な顔つきに変わっている。


「商会の跡を継ぐに相応しい者としての私を育ててください。私は勤勉を誓い、貴方の為に働きます。歳をとってあらゆる権限を譲り受けたら、そのすべてを貴方にお渡しします。または先程私が提案した養子の件が叶った場合、道筋は多少異なりますが、目指す場所は同じです」

「…今はそうしておきましょう。どちらにせよ、太陽と月がひとめぐりする間にどうなるものでもありません。貴方の教育に関してはあの方の意向です。私は是非もありません」


あの方―――自分で口にした言葉が耳の奥で揺れた。

名前を告げられなかったのは、まだ想い続けている証だろうか。

初めて会った屠畜場は、まだあの場所に在るのだろうか。確かめて、舞い立つものが心に残っているのかもわからなかった。


「しかし、養子と簡単に言いますが、実手順の際にどれほどの障害があるかは理解していらっしゃるのですか」

「はい。詳細の開示はシャルルさんが真に了承をしてくださったあとにおこなわせてください。今言えるのは、構想はあるとだけ」

「……おや、感情の押し付けが得意なだけではないのですね。無理算段ではないといいのですが」

「ジョットさんのような言い回しですね」

「……………気が変わりました。貴方の目論み通り、契約をしましょう」


レーヴェはパッと顔の温度をあげた。しかしその口から賛辞が出る前に、シャルルは人差し指を立てて黙らせる。


「条件があります。私が貴方の言う事を聞く代わりに」


端に寄ったままの椅子に腰かけ、足を組む。短靴を履いた足先が前を向き、跪いた者に対する褒美の高さとなる。

シャルルはレーヴェに向かって自分の中で一番の華美な笑顔をして見せた。


対価を払わず、何も成すことなどできない。無垢な顔をして正義を押し通そうとする少年が、恥辱と汚点を得てもなお、私を正すことを諦めないというのなら。


「舐めなさい」


これは誘惑とは違う。

罪人への判決だ。


判官の言葉を咀嚼しているのだろう。レーヴェはじっと同じ調子でシャルルを見ていた。

その目には喉を貫くような驚きも、服毒する男が見せるような酸性の情動もない。ここに至ってなお理屈をこねる愚かさを見せるなら、容易に見限ることができたというのに。しかし少年の眼差しにはそんなものを差し挟む余地がなかった。

愛嬌を遠ざけた顔に感情はない。シャルルは彼が応じないかも知れないと思い始めた。


レーヴェはさっと動いた。床板の上にひれ伏して、浮いた短靴に視線をそそぐ。二人の距離は一人分もない。

恭しく脱がすあいだ、視線は一度も絡まない。主導権はこちらにあるというのに、シャルルは余所に置かれている。服を退かれた足の甲に、吐息が少しあたった。だんだんと速くなる鼓動が容赦なくシャルルを不安にさせた。


どうして口を開かない。ただ恥じらい、ただ拒絶し、不安な目で見上げればいい。子供のようなことを言ってしまった、ごめんなさい、どうかお許しください、と。

そうしたら、許してあげられるのに。


「…何をしているのです」


上擦った声が出た。シャルルは拳を握りしめていた。

レーヴェはまだ顔をあげない。うずくまった髪とその隙間から見える鼻筋、その奥から赤いものが見えた。


咄嗟に立ち上がろうとした。何故そうしたのかはシャルル自身もわからない。なだれかかる髪が足首を擦り、次の瞬間には生々しい熱が足の甲を弄う。

レーヴェは徹底的にシャルルの肌に身を重ねた。愛着のある工具に油を塗りこむように丁寧に、薄い皮膚の下の骨が作り出す傾きをなぞる。


「やめろ」シャルルは弱弱しく繰り返した。

そうして戦慄いている姿をレーヴェは足の甲に口づけたまま盗み見る。兄と慕っている人を。決心を試そうとしておいて先程とは別人の観をなして、薄気味悪い心地で人を見下ろす臆病な人を。


胸と太腿がぴたりとくっつくほど前屈みになって、逃れられぬよう足首を後ろから包む。櫛の歯を滑らせるように、指の谷間に舌を這わせると、とうとう彼の平手がピシャリと鳴った。

鼓膜に響く反動は首に抜け、レーヴェの頭が余所を向く。


風にかき乱されたあとのように情の絡まった顔をしている男は、椅子の下に足を引っ込めると、レーヴェの頭がこれ以上動かないように両手で確りと掴んだ。頭髪の中に潜りこんだ十の指は、項垂れる男そのままに力もない。


レーヴェは勝手に自壊した男を少し呆れながら見ていた。体積そのものさえ愛おしく思うと笑みが頬に乗る。

人とはこんなにも弱く。平静の奥を開けば、灼熱のようにせめぎ合うものなのだとシャルルが身をもって教えてくれている。


「………シャルルさん…どうなさいましたか?」

「…………どう、…ぁ……あなた………」


ねえ、シャルルさん。私は貴方のことが少しわかりました。心の中で続ける。夜毎寝物語をせがむ子供を優しく見つめるように。


「私はなんだって出来ます。貴方はどうですか」


その瞬間、用心して後難を避け続けてきた青年は、少年に身動きできない状態にされた事に気がつかなかった。

足を濡らした唾液は、青年の均衡をいつまでも乱した。






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