64 鏡面と、
すえた臭いが充満する。横たわる男を見下ろしているレーヴェの耳は、轟轟と血が湧く音を聴いていた。レーヴェはシャルルの腹の上にまたがると、太腿を圧迫しながら驚愕にそまる顔めがけて椅子を突き下ろした。
四つの足のひとつがシャルルのあばら骨をかすり、もうひとつは髪を床に縫い付ける。頭皮が引っ張られ、大きく仰け反る。木枠に後頭部を打ちつけた。まるで柵の中で醜態を見せる囚人のように奇声があがる。シャルルはできる限り膝や体をすぼめようとしたが、それすら叶わない。
どうにかして椅子をどかさなければ。
わかっているのにシャルルの思考は散発し、沈黙を選び続ける。
熱い吐息がシャルルの顔につきまとった。必死に首を振るも、災いの元は魂の内側にあったから一層耐え難く、容赦なく渦巻き、連なった。瞼の裏さえ裏切った。目をつぶっても、自身の欺瞞に光があてられて、どこにも身を隠す場所がない。シャルルは必死に床に頬を擦りつけながら念じる。説明したくない。説明されたくもない。欺瞞は欺瞞のまま。海の中にたちまち紛れて、ひとつの飛沫になるように。
ぽたりと目の下に何かが落ちた。
真横を向いていたシャルルの頬の高い場所から鼻骨へと流れた。
「……自分を捨ててしまわないで………」
―――――レーヴェの嗚咽は何ものにも妨げられずに届いた。
砂地に染み入る雨のように、静かに、ぽたり、ぽたりと、シャルルの心に触れる。
レーヴェの震えがシャルルに伝播し、何もかもを押し流した。彼が慟哭する度に、シャルルは凪の海のように静まっていく。
そして奥底にしまい込まれていた最後の鍵が開いた。
錠前が押し出され、重い音を立てて飛散する。音の反響がやまぬうちに、シャルルはみすぼらしい板張りの上に立っていることに気づいた。
茫然としながら周囲を見渡すと、強烈にこちらを照らす吊り灯があった。遮るように手をかざし、顔を顰めると、誰かの話し声が耳に入る。
その時、初めて観客がいることに気づいた。
扇状に広がる観客席と、行儀よく席に着く数多の群衆がシャルルを見ていた。
彼らは眉をしかめ、首をひねり、指をさしていた。舞台の上のシャルル、ただひとりに向かって。認識した瞬間シャルルは後退った。自分の口の中でかちかちと連続する音を聴く。
客が口の横に手をあて、声を上げた。
「もう終わりか?」
「なにを」とシャルルは声もなく聞き返す。
「お前の人生」
群衆が一斉に笑い出した。
笑い声は波のようにシャルルの身に駆け寄り、剣のように満遍なく突き刺した。ひとりひとりの顔は眩く光り、ひとの形を保っているのは首から下だけになった。顔を覆って床に伏せたシャルルに拍手の雨が贈られる。世界そのものから抉り取られ、捨て去られた青年に向かって。
シャルルは何度も心の中で「やめて」と言った。耳の穴に指を詰め、絶叫をすると、白黴の生える床板の割れ目から、水が噴き出し、シャルルの顔を濡らした。
たちまち水位はあがり、意志をもって渦を巻き、シャルルの足に絡む。群衆は慌てふためくシャルルを見て、快活に笑い続けている。哀れな男が飲み込まれていくのを最大漏らさず見物して、消費していく。
シャルルは溺れながら必死に助けを求めた。最前列で最初に自分に話しかけた男が目に入る。
そこにいたのは自分だった。
大笑いしながら自分を見ている、己の姿。
躓き、小汚い部屋に横たわる青年と少年は、鏡のようだった。
シャルルは涙でしとどに濡れた顔で、
「殺してくれ」
と言った。
レーヴェは涙でしとどに濡れた顔で、
「どうして」
と聞いた。
二人はいま初めて向かい合った。
「純粋に死にたい」
言葉にしても死の密度はあがる訳ではない。見つめ合ったまま、互いの位置は変わらない。シャルルは落ち着いていた。虚栄に身を隠すことをやめると、残った心は晴れやかだった。
レーヴェは笑顔を浮かべた。死を願う言葉の中に苛烈さがないと気づいていた。
「……きっと私達を死なせてくれるのは、私でも貴方でもありません」
レーヴェはそれきり黙ったが、続きを心の中で問う男の視線に気づいて、思わず噴き出し、性急さを笑った。
椅子をどかして立ち上がるとレーヴェはシャルルに手を差し出した。その白い手をじっと見つめていると、「はやく」と甘く急かされる。シャルルの世界は確かに壊れたが、それでも終わりはしなかった。




