表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

64/411

64 鏡面と、

すえた臭いが充満する。横たわる男を見下ろしているレーヴェの耳は、轟轟と血が湧く音を聴いていた。レーヴェはシャルルの腹の上にまたがると、太腿を圧迫しながら驚愕にそまる顔めがけて椅子を突き下ろした。


四つの足のひとつがシャルルのあばら骨をかすり、もうひとつは髪を床に縫い付ける。頭皮が引っ張られ、大きく仰け反る。木枠に後頭部を打ちつけた。まるで柵の中で醜態を見せる囚人のように奇声があがる。シャルルはできる限り膝や体をすぼめようとしたが、それすら叶わない。


どうにかして椅子をどかさなければ。

わかっているのにシャルルの思考は散発し、沈黙を選び続ける。


熱い吐息がシャルルの顔につきまとった。必死に首を振るも、災いの元は魂の内側にあったから一層耐え難く、容赦なく渦巻き、連なった。瞼の裏さえ裏切った。目をつぶっても、自身の欺瞞に光があてられて、どこにも身を隠す場所がない。シャルルは必死に床に頬を擦りつけながら念じる。説明したくない。説明されたくもない。欺瞞は欺瞞のまま。海の中にたちまち紛れて、ひとつの飛沫になるように。


ぽたりと目の下に何かが落ちた。

真横を向いていたシャルルの頬の高い場所から鼻骨へと流れた。


「……自分を捨ててしまわないで………」


―――――レーヴェの嗚咽は何ものにも妨げられずに届いた。

砂地に染み入る雨のように、静かに、ぽたり、ぽたりと、シャルルの心に触れる。


レーヴェの震えがシャルルに伝播し、何もかもを押し流した。彼が慟哭する度に、シャルルは凪の海のように静まっていく。

そして奥底にしまい込まれていた最後の鍵が開いた。

錠前が押し出され、重い音を立てて飛散する。音の反響がやまぬうちに、シャルルはみすぼらしい板張りの上に立っていることに気づいた。

茫然としながら周囲を見渡すと、強烈にこちらを照らす吊り灯があった。遮るように手をかざし、顔を顰めると、誰かの話し声が耳に入る。


その時、初めて観客がいることに気づいた。

扇状に広がる観客席と、行儀よく席に着く数多の群衆がシャルルを見ていた。

彼らは眉をしかめ、首をひねり、指をさしていた。舞台の上のシャルル、ただひとりに向かって。認識した瞬間シャルルは後退った。自分の口の中でかちかちと連続する音を聴く。

客が口の横に手をあて、声を上げた。


「もう終わりか?」

「なにを」とシャルルは声もなく聞き返す。

「お前の人生」


群衆が一斉に笑い出した。

笑い声は波のようにシャルルの身に駆け寄り、剣のように満遍なく突き刺した。ひとりひとりの顔は眩く光り、ひとの形を保っているのは首から下だけになった。顔を覆って床に伏せたシャルルに拍手の雨が贈られる。世界そのものから抉り取られ、捨て去られた青年に向かって。


シャルルは何度も心の中で「やめて」と言った。耳の穴に指を詰め、絶叫をすると、白黴の生える床板の割れ目から、水が噴き出し、シャルルの顔を濡らした。

たちまち水位はあがり、意志をもって渦を巻き、シャルルの足に絡む。群衆は慌てふためくシャルルを見て、快活に笑い続けている。哀れな男が飲み込まれていくのを最大漏らさず見物して、消費していく。


シャルルは溺れながら必死に助けを求めた。最前列で最初に自分に話しかけた男が目に入る。


そこにいたのは自分だった。

大笑いしながら自分を見ている、己の姿。



躓き、小汚い部屋に横たわる青年と少年は、鏡のようだった。


シャルルは涙でしとどに濡れた顔で、

「殺してくれ」

と言った。


レーヴェは涙でしとどに濡れた顔で、

「どうして」

と聞いた。


二人はいま初めて向かい合った。


「純粋に死にたい」


言葉にしても死の密度はあがる訳ではない。見つめ合ったまま、互いの位置は変わらない。シャルルは落ち着いていた。虚栄に身を隠すことをやめると、残った心は晴れやかだった。


レーヴェは笑顔を浮かべた。死を願う言葉の中に苛烈さがないと気づいていた。


「……きっと私達を死なせてくれるのは、私でも貴方でもありません」


レーヴェはそれきり黙ったが、続きを心の中で問う男の視線に気づいて、思わず噴き出し、性急さを笑った。


椅子をどかして立ち上がるとレーヴェはシャルルに手を差し出した。その白い手をじっと見つめていると、「はやく」と甘く急かされる。シャルルの世界は確かに壊れたが、それでも終わりはしなかった。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ