62 対価と価値と、
シャルルは順応しなければならなかった。
自分がバティストンを慕う限り、商会の労働者として、この子供に対し礼儀を重んじなければならない。それはシャルルにとって容易なことではなかった。
ましてや「バティストンの養子」になるという話には一切心が動かされることはなかった。帳場でおこなわれるいつ終わるともしれない価格や品質についての弁明と同じく、聞くに堪えないものだった。
幼く、身勝手で、無能な少年の情熱はどこからくるのだろう。
シャルルには彼が何を待ち望んでいるのかわからなかった。ただ軽蔑の念を感じるだけではなく、まともな思考交換さえできないことに恐怖さえあった。彼は彼自身の願いを遂行するために、部屋まで来て、どうにか関係を発展させようとこころみている。
(関係…? 誰と………私と…?)
思考の綻びから、人生の苦痛が漏れ出るのを感じた。
絶え間ない時間蓋をし続けていた思いが、少年の配慮の欠けた言葉によって、揺らぎ、ひどくあしらわれた。
シャルルは全身から滲む失望を隠さず、壁にもたれ掛かる。
「シャルルさん…?」
バティストンの事を考えるたび、ジョットに興味が移ろう日がくるのかも知れないと思っていた。結局そうはならない。
温かさの無い環境で生き、生まれてこの方見失っていた生きる意味をバティストンに与えてもらった。それからも彼と接触する事で保っていた。
(保つ…? 何を………………私を?)
たとえバティストンが、自分に向けていた社会への不満や他者に見せない感情を、性行為や暴力で自分にあてつけていたとしても、それを「――――」とは思っていなかった。いや、「――――」と思っていた。可能なら「―――」欲しい。可能なら「――――」、「―――――――」「――――」「―――」違う。ちがう。ちがう。ちがう。思っていない。
顔を覆い、背中を擦りつけながら座り込む。
シャルルの世界はいま壊れた。
見下ろされると、自分がみじめにやせ衰えたような気がした。彼はにこりと笑ってシャルルの前に片膝をついたが、その目に熱は無く、大人びた静けさがあった。
しかしまだその瞳の中にシャルルへの敬意があるように思えた。
「私は家のどこへなりとも、立ち入る事を許されています。それは私の行動を制限しているから、その対価なのだと思います。だから父の部屋に行きました」
レーヴェは養子になってから人生の多くを学問に費やしていた。元より知識に飢えていたから、あらゆる事を知りたいという願いに駆られて、家中の書籍、巻き紙、詩でも、熱心に読みふけった。
「父は家で仕事をすることはありませんが、一つだけ例外があります。商会に勤めて下さる方々に支払う賃金……所謂、賃金台帳の管理です。誰にも見せないように鍵付きの棚にしまっています。そればかりはシャルルさんもご存知ないのでしょう?」
シャルルは沈黙をもって答えた。レーヴェは頷いて続ける。
「私は毎日、講義の合間を見つけては台帳を読み解くことに専念しました。鍵については秘密です。台帳は、私が生まれる………生まれたとされる年よりも更に前の台帳も遡りました。最初は賃金の相場もわかりませんでしたが……勉学を進めていくうちに驚くほど惨めな状態であることがわかってきました。シャルルさん、ご自身の給金は徒弟よりも低いこと……ご存知ですか。貴方はそれだけの時間や体、頭脳を捧げていても、他人より低い賃金で使わされているのです」
「うそを……つく………帳簿も、帳簿も読めないお前が」
「会計帳簿と賃金台帳の読み方が違うのは当然です。今日拝見して驚きました。父がつけている台帳は、ところどころ暗号や符牒が混じっています。その読み方に慣れすぎて、まともな……シャルルさんのおつけになる帳簿などはとても読みにくかったのです…」
これから歪みを矯正していく必要がありますね、とレーヴェは頬を赤らめて笑った。
シャルルはまだ疑っていたが、目の前の子供が熱の無い、明晰さも持ち得ないものだと見なしていたから、同時に激しく動揺をし始めていた。
「商会に就業している六百名の労働者のうち、役職がついていたり、結婚して家庭を持っているような方には多少道徳的な配慮……賃金の上乗せがされています。それでもしばらくは暮らしていける、という程度のもので土台の底上げではありません。父は………父はとても金銭に対する思いが…強く……一番大きくお金が動いたのは、うちを買った時です」
一度重い息を吐いて、レーヴェは肩をすくめて見せた。
「私の家、父の家、母の家……あの家は個人宅ではなく、事務所扱いでした。商会の資金を使って建てられ、地代も税も商会の名義で請求をされていました。豪華な家具も、母への贈り物も、使用人たちの賃金も、全部商会の経費として計上されています」
「……………私は………何も知らない……」
「うちにある賃金台帳をお見せすることもできます」
危険は伴うでしょうが、とレーヴェは冷静に断りを入れた。シャルルは笑うほかなかったが、顎がかみ合わなかった。
レーヴェは体をよじり、シャルルと同じように壁を背にして座った。二人で肩を並べながら、一人は床を、一人は狭い部屋を見つめていた。
 




