61 希望と、
彼の部屋は大きな荷物はなく、備え付けの家具が最低限あるだけの極めて質素なものだった。扉のすぐ横には衣装箪笥があったが、その箪笥は驚くほど細く、彼の持ち衣装の少なさを表していた。
廊下と同じ床板の上に毛の短い絨毯がひかれ、それらの端に寝台と両袖机がのっている。想像に反して机上に本はなく、尖筆ひとつ置かれていなかった。唯一表に出ていたのは机の横に置かれていた紙の束だ。紙面の文字を目で追うと、海港都市から北上したずっと先にあるというアクエレイルで発刊された読み物であることがわかった。下の方は劣化が進んでいる。これらの物は仕事に必要だから集めているのだろうか。その中に余り見ない文字が並んでいて、レーヴェは思わずいつもの勉学の癖で、無意識に単語を口にしてしまった。
すると、懐中時計や仕事道具を外し終えたシャルルが、袖の釦を外しながら微かに振り返った。
「……読めるのですか?」
「え? あ、今。すみません……語学の授業を受けているので少しならわかります。父が異国語を喋れるようになれと言うので……まだ単語や文法を覚えている最中ですが……これは、えっと……いざ、…去る、終わり……?」
重複表現―――どう考えても間違えている。最初で詰まってしまい、切れ目のよいところまでも読めなかった。確かこれは主語の人称と数に応じて変化する言葉だった筈だ。先生の言葉を思い出すものの、与格など他の文法も絡み、答えはなかなか導けない。
表情をくるくると変えながら奮闘しているレーヴェの横にきた彼は、新聞を引き抜くと、文字をゆっくり発声して聞かせた。
「いざさらば闘争の…、です。三文字目は無声子音なので声を伴わずに発音します」
「いざさらばとうそうのせかい……いざさらば闘争の世界……、あぁ確かに音がない。これはなんとも力のある見出しですね」
彼が言うには貧民街を抱える街の利潤欲に満ちた雰囲気と、それを払拭した革命を伝える記事だそうだ。異国で起きた事件だということは単語で判別できる部分もあったが、論説を一通り読むには相当の時間がかかるだろう。
「それで何を聞きたいんですか」
彼はまた壁の方へ歩いて行ってしまった。
実を言うと問う事は考えていなかった。彼はにこりともしない。
「……貴方のようになりたいと最初にお伝えした通りです。私はバティストン・フロムダールの息子として、一人前の商人になりたいのです」
家を出てはいけないという規律は、少し緩和され、レーヴェは自宅と商会の関係する場所、いわゆる港湾事務所や大通りの事務所にはいくことができるようになった。
さらに父に許可をもらい、シャルルの手伝いも始めた。今日は帳簿の読み方と計算機の使い方を教わった。とても難しく、家に持ち帰るわけにもいかないので、わからない箇所はすぐに質問した。見る物すべてがめずらしく、読むものすべてが馴染みなく、聞く言葉のすべてがわからなかった。彼の業務はレーヴェが「シャルルさん、これはどういう意味ですか」と挙手する度に中断された。だから彼は今あんな風ににこりともしないのだろう。
「そんなことを言いに来たなら、今すぐに出てください」
「私はただ、貴方をもっと知りたいのです……」
「私を? 私は貴方より十歳上、二十三です。父母の顔も知らず、腐った肉を食べていた頃、貴方の父に保護されました。目は灰、髪は見ての通り、ギンケイ特有の髪色です」
「はい……でも私は人相を知りたいわけでは……ないのです」
彼は嘲笑的な吐息をもらした。
「なら何を?」
突然レーヴェの手首を掴むと、鼻先が触れるほど顔を近づけた。シャルルの顔には狂気的な笑みが浮かんでいた。
「尊敬になんの意味がありますか。私は貴方が嫌いです。貴方は私の業務を妨げる。教育を施してもらえると平然と思っている。貴方の父は――――貴方を教育しろと言った。そんなもの私の役目ではない……随分甘やかされていらっしゃる」
「それは……その通りです。私は自分の中の余りある感情や恵んでもらった環境でもって、貴方の時間を破壊している。けど、それが何だと言うんです」
自分を恥じる気持ちはある。物を知らぬ自分は何をするにも能がなく、やり方を聞かねばならないし、異国語も満足に喋る事が出来ない。
業務中は笑顔を浮かべていたが、目線や声色でどう思われているかなどわかっていた。
けれど、それ以上に思うものがある。
「私は本当の子供ではありません。父も母も知りません。二人には角がある。けれど私には種族を表すものは何もありません。本当の父や母の種族も知らぬ、フロムダール家の余所者、それが私です。けれど父も母も良い服を着せて、教育を受けさせてくれる。この先立派な人になるように望まれているのです。頭がよくて仕事ができる貴方のような人に」
「そんな事私には一切関係が無い。どうして私が犠牲を払わなくてはならないのです」
「私が商会を継ぐからです。私を教育することで貴方の負担は軽くなって、人生を楽にすることができます。こんな場所に住まなくてもよくなるのです」
「お前は……私からどれだけ奪うのかわかっていない」
「私の兄になってくれませんか? 父にシャルルさんを養子にしてくれるよう頼みます。私を受け入れてくれたのと同じように……そうしたら本当の兄になります」
「何を……」
シャルルは眩暈がした。掴んでいた手を離すが、レーヴェは動かず、不安がっている様子も無かった。
「狂ってる……」
「……そうは思いません」
シャルルは少年をこれほど怖ろしく、又大きく感じたことはなかった。
腹ただしさを再度ぶつけようとしたが、少年の錆のように曇った顔や、かたわらに落とした影に、行く果てを察した。




