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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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60 貴方と私と、

レーヴェはシャルルの事を兄と慕っていたが、シャルルの事をよく知ってはいなかった。


父は仕事が終わると真っ直ぐに帰宅し、レーヴェの頭を撫でながら今日あったことを話してくれた。

紡ぎ糸の価格や、労働者の階層、貧富の差などは、その中で学んだ。

バティストンの話はひとつとして同じ話がなく、レーヴェは目を輝かせながら毎日熱心に耳を傾けていた。商売の苦労、取引がうまくいかない場合の処世術、自分が収入を増やすためにどのくらいの年数を要して、どのように大きな商会を持つまでに至ったか。熱のこもった視線で語られる数々の過去は、物を知らぬレーヴェを素早く酔わせた。


「シャルルは凄い。やつはできた男だ」


父の話によく出てくる「シャルル」という名前。


レーヴェの頭の中の彼はとにかく優秀で、気遣いのできる人だった。

商売仲間との交渉や、父を訪ねてきた方の応接をつつがなくこなし、謙虚に振る舞いながら決して商会の損になるような立ち回りはしない。最後には相手を笑顔で送り出して、次の商談に取りかかる。彼の逸話はレーヴェにとっての神話だった。顔も知らない彼を思い描くだけで、胸がざわつき収拾がつかなくなる。


長い間父の補佐をしている彼は、勘定書の作成、理力通信の処理、売り手との交渉、買い手の斡旋、書簡の処理などをたった一人でこなしている。月並みに言えばバティストン商会そのもので、彼なくしてはあちこちで不備が起こり、一気に傾むいてしまうように思えた。


「商人のあるべき姿」という問いに彼の名前を出してしまった時は、肩を落とす父の姿を初めて見た。それ以来なるべく彼の名を口にするのはやめようと決めたが、内心彼に逢いたいという気持ちは抑えられなくなっていた。


(どうすれば逢えるだろうか……)


逢いたいとは言えなかった。もう二度と彼の話をしてくれないような気がしたからだ。どちらにせよ家から出ることを禁じていたから、逢いに行くことはできなかった。

レーヴェの日課は朝から晩まで机にかじりつくだけ。時間ごとに訪ねてくる先生方の講義を受け、彼らが帰ったあとは山積した課題を片付けなければならなかった。知識を得る事は楽しく、それ自体は苦役と感じることは無かったがレーヴェの足は家につなぎとめられ、封じられていた。


「親愛なるジョットさん お願いをひとつだけ叶えてくださいませんか。いろいろな事情に妨げられて、私は海の青さを知りません」


父にも母にも秘密だと念押しして従者に手紙を渡した。

そうしてしばらくしてから、念願の相手と対面する時はやってきた。


永いことこの瞬間を待っていたような気がする。

港湾事務所の入口の前で俯く横顔に、鼓動がどうしようもなくざわつく。

彼がこちらを向いた瞬間、舞い上がった。そして舞い上がり過ぎてしまった。ジョットさんが三人で会話をする機会を作ってくれたというのに、最も関心をよせる相手を不愛想な顔で睨みつけてしまった。


名乗っていないことに気づいた時は終わったと思った。

あの瞬間のことはジョットさんにいまだに揶揄われる。そんな時は必ずどれだけ会いたかったかと熱弁して返すが、恥ずかしさはついて回る。できる事ならあの日の失態は忘れてしまいたかった。それでも彼と出会えたことを思えば天に昇るような心地にもなれた。


「シャルルさん…お待ちください!」


事務仕事を終えて自分の部屋に戻るシャルルのあとについてきたレーヴェは階段の前で綺麗な空気を吸い込んで、覚悟を決めて段差に足をおろした。

いつもは途切れる音が今日は続いたことに気づいたシャルルが振り返ったが、その顔には苦笑が浮かんでいた。


「無理なさらないでください。業務は終わったのですから、お帰りになられては」

「まっ、まだお聞きしたいことがたくさんあります…!」

「…そうですか」


ともかくレーヴェは引くわけにはいかなかった。

臭覚が自分から切り離されてくれるよう念じ、喉から空気を吐き出し続けたが、限界がきて結局息継ぎをしてしまった。

階段をひとつひとつ降りる度に、下水からのぼってくる汚水の臭いが鼻に入ってくる。けれど手の甲で抑えることなどできない。


最下段まで辿り着いたレーヴェの足が黒い染みのついた床板を踏んだ。ぎぃっと軋む音の中に、甲高い音が混じる。自室の鍵を開けたシャルルはさっさと扉を閉めてしまった。


レーヴェは狭い廊下を駆け、律儀に扉を叩きいた。「どうぞ」と声がする。歓迎されていないことはとっくにわかっている。

無礼を働いている自覚もある。それでも拒まれていないことに、まだ希望を持っていたかった。






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