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59 慰みと、

ジョットはいつもの笑みを浮かべると「退いてもらえますか」と言った。


夫人は自分が少しも許されなかったと感じて、化粧皺の残る口で「貴方には義務がある」と低い声で言った。卑俗な匂いはたちまちに霧散し、夫人は右手を振り上げる。杯に浅く残った果実酒がジョットの頭上に注がれようとしていた。ジョットはされるがままになってやるつもりだった。


「ご歓談中のところ失礼致します」


夫人が気配を察して手を止めると、若い使用人が居間に面した入口のそばで足を揃えて立っていた。胸を張り、顎を突き出す姿は従者としての形ではあるが、瞼がしきりに上下していた。

主の情事に遭遇することなど全く予期していなかったという初心な顔は紅潮し、平たく結んだ口から今にも羞恥が溢れだしそうだった。夫人が使用人のそばに寄ると、彼は赤ら顔をさっと遠ざけた。それが侮蔑されたように感じたと見える夫人は、使用人をその場に跪かせた。


「何、お話してちょうだい」

「先触れがございました。旦那様の港湾での仕事が一段落したため、ご帰宅なされるとのことです」

「レーヴェは」

「若様はお仕事のため今宵はシャルルさんとご一緒に…」

「そう……私はまた一人寝をしないといけないの」と小さく呟いて、すぐに元の態度で振り返った。

「ジョット、子供を頂戴。こうして一人で留守をしていると退屈だもの。どこにも行かない、私だけの物が欲しい」


豪華な家に住み、美しい衣に身を包み、好みの男に囲まれようと、燐寸を擦って点けた小さな灯火を誰にも奪われないように守っているようだった。

もしこの女を描いた絵画があるなら、注釈には「不幸な女」と付くだろう。

ジョットはこの話をここで切り上げる事もできた。


―――けれど、続けることを選んだ。憐憫がないとは言い切れない。


ジョットは石畳の上で小動物のように震える青年を指先で立ち上がらせ、壁際に立たせた。丁度両脇を高い木とツタに囲まれ、入り口や二階からの視線が遮られている。

夫人を抱え上げると動揺し、逆らおうとする姿勢を見せた。行く宛てもなく固まっていた青年の手を取り、夫人の腰に絡ませると、ようやくそこで何の色も乗せない、少女のような顔を見せた。確信を持ちながら、口にして欲しいと目が言っている。わざと冷淡な顔をして夫人の片足を持ち上げると白い裾が太腿を滑り落ちた。川面をすべる白い靄のように冷えた空気が足元を包んだ。


「持っていなさい」


肩越しに視線を合わせると、羞恥に頬を染めた若い男は、言われた通り夫人の膝裏を持った。肌にしっかりと食いこむ若い手の骨をなぞり、そのまま夫人の脹脛の曲線を撫でていく。夫人の真中からは無分別に生み出された名残りが糸を引いた。一冊の古い本をめくるように、茂みの影の中に指を潜らせると散っていった熱がジョットの指という紐帯を得て、再び募り始めた。


「こういう事をなさったら私の立場はどうなるかわかりますか」


女は返事をするように喘いだ。唇の隙間から赤い舌が伸ばされ、溺れるように狂おしく乱れる。

頂点と崩壊を繰り返したいという彼女の願いは、肉体が貫通されるときにだけ安息を得る。彼女の体を拒絶することは彼女自身を否定することと同義で、彼女が成り立つためには男が必要だった。一人で立つこともできない。しなやかに体をくねらせ、快感の涙が目尻ににじむ。それは狂気の姿をしていた。


釘を打たれるように犯され、青年の胸板に押し付けられながら、彼女は跳ねた。指の動きひとつに腰をひねり、柔い肌を顫動させる。


「……ぁ、………」


狂おしい騒音の合間にほとんど吐息のような声を、ジョットの耳は拾い上げた。瞼を上げて青年を見ると、膝裏が跳ねるたびに見え隠れする彼の手に血管が浮き上がり、小刻みに震えていた。

夫人が快感を集める度、仰け反った背に押され、彼の背は石壁に押し付けられた。震える眉間の上を髪が跳ね、きつく結んだ唇を時折まるく開け、息をついでいる。


ジョットは夫人の口を口づけで塞ぎながら、乳房を潰していた手で青年の頬をなぞった。彼もまた震え、崩壊の兆候を見せた。

濡れぼそった女から舌を引き抜いたあと、再び始まった嬌声に混じり、青年の涙を堪えるようないとけない呻きが混ざりあい、ジョットの耳をかき乱した。


腰を打ちつけながらもう一度青年の頬を撫で、抱きしめるふりをしながら耳たぶを柔く食んだ。青年の目がぱちりと開き、真っ赤な顔でジョットを見つめた。まなこに集めた涙が睫毛に散るのを、芸術品をみるような目でうっとりと見つめた。


官能は初めて高まりを見せた。

ジョットは女の胎に種を蒔きながら、青年の体を愛撫した。

青年の舌を味わっていると、ふと夫人の言葉が蘇った。


「あの子の太腿がこまかく震えて、足指が引き攣るほど緊張している時、別の男の中に昂りを放つことを考えるの?」







邸宅前の通りにはまだバティストンの馬車はなかった。ジョットは低い扉の前に頭をもたげると、窮屈な空間に長い手足を押し込む。些か乱雑に腰かけると、肺にたまった空気のすべてを吐き出した。


脱帽し、外套を床に捨てる。裾に雪とツタが残っていて、草生のように広がった。庭での行為を思い出し、ジョットは突然窮屈さを覚えた。狭苦しい家も、庭も、馬車も、何もかも相容れないもののように感じた。椅子に頭をつけるほどに項垂れ、倒れかかった。


「――――――お時間を、」


ジョットの耳に誰かの声が聴こえた。馬車の外でやりとりをしている者がいる。

御者側の小窓を覗くと、横長に区切られた空を背景に御者の丸まった背中が見えた。彼は通りの方を向いて頷いている。


扉の縦窓は曇りかけていたが、近づくと向こうに男の顔が見えた。先程の若い使用人だった。少し扉を開くと、彼は少し体をずらし、腕だけを掲げた。扉の額縁の中に、供物を奉じる彼の手だけが描かれる。


「ジョット様、お帰りの所申し訳ありません。奥様より本日のお礼をお渡しするようにと言付けを…こちらを」

「お礼…とは殊勝な事ですね……」


豪奢な飾り布に包まれた硝子瓶を捧げ持つ使用人は、一度も馬車の中を覗くことはしなかった。けれど待てども瓶は手元にあり、また馬車の中で人が動く気配も感じられず、たまらず彼の名を綴るように囁いた。

その間、青年の目は地面に刻まれた轍と馬の蹄の跡を必死に見ようとしていた。自分が投げかけた小さな声が心の底から情けなく、沈黙の中で身を固くするしかできない。


「……貴方を巻き込んでしまったこと、申し訳なく思っています」


優しく、弱り果てたような声だった。

青年は弾かれるように顔をあげる。硝子窓越しに、身なりの崩れたジョットの姿が映った。青年は酷く狼狽し、瓶を抱いたまま思い余って足場に膝をつき、馬車の中に体を差し入れた。


「そのような事をおっしゃらないでください…! 貴方様のお心を守るためならこの身などいくらでも捧げます…だから、ジョット様………」


その言葉はジョットの体に染み込み、慰めになった。彼は餌にくいつくように床板に手を付いた己を恥じて、また視線を逸らした。叱りつけられるのを待つ黒い瞳は揺らぎ、薄く開けた口は何がしかを紡ごうとして失敗している。けれど全身からジョットと融け合いたいという執着を発していた。ジョットはようやく正しい呼吸ができた気がした。


「……もし暇をもらえるようなら、うちを訪ねてください。半端にしてしまった償いを………いえ、」


ジョットは青年に対して唯一できる施しを与える姿を想像した。美しい眼から涙が零れて、花弁に落ちる朝露のように頬を伝うのだろう。


「…………今すぐ、…貴方を抱きたい」


青年は唇を震わせ、ゆるゆると瞳を泳がせる。

その身体に灯った熱が水位をあげて、喉元をせりあがる。赤い目元から涙があふれ、理性が追いやられた証となって剥落する。


「ジョット様の……お望みのままに………」



一台の馬車が角を曲がった。泥を跳ね飛ばしながら、愛する妻の待つ家に帰る男を乗せている。

日が落ちて暗闇が足元に迫っている。厨房は大忙し、どこかの階梯では男女が相擁し、男達は狼のように凛々しく、女達はまつげを揃えて眠っている。

改築中の家の前で馬車がすれ違った。

垣の向こうから誰かの話し声が聴こえたが、熱気がこもる馬車の中には届かない。


―――「奥様また妊娠なさったの。今度はどなたのお子さん?」






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