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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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57 見さげ果てた人生と、

ジョットの故郷での商人といえば、金の力で権力や地位を得る卑しい者という認識にほかならず、ことあるごとに条例違反と誹られ、裁判集会を開かれて断罪される厳しい時代に生きていた。


農村で商人の真似事を始めたジョットも、段々と人心を省みない不当な商談を行うようになり、被告として出廷した経験がある。起訴される度に証人をでっちあげ無罪を勝ち取っていたので、頭と金の有効的な使い方はこの時期に培ったと云える。


しかし首都での裁判ともなれば賄賂や小細工は通用しない。教会裁判所と国王裁判所の取り調べは厳格で、裏工作が露見した場合は即座に審理が打ち切られ、死罪が下される。

両裁判所が取り扱う罪状の多くは重なるが、より重罪なものは国王裁判所の領域となることが多かった。


拠点を首都にうつしていたジョットはある朝、国王裁判所に召喚され、実父が絞首刑を命じられた瞬間に立ち会うことになった。傍聴していた者達が嬉しそうに退室していく最中「嵌められたんだ!」と息子に向かって叫ぶ父の情けない顔が強烈に頭に張り付いた。父とはとうの昔に絶縁していたが、その再会が最後の瞬間となった。


裁判所から父の動産を受け継ぐよう命令を受けたジョットは瞬く間に搾取され、すべての財産を失った。

父親と縁を切り、家を飛び出したジョットには動産に関して頼る相手がおらず、また正しい相手を見つけることもできなかった。


果てにはやってもいない罪を着せられ、首都から逃れ、北部の港町で船に身を隠した。

血の滲むような努力で勝ち得た叡智も、磨いた風貌も、踏みつけられるのは一瞬だった。仲間と思っていた商人たちは潮が引くように遠ざかり、おしまいはこんなにも簡単にやってくるのかと、船倉に横たわりながら口元に笑みを浮かべる。殴られた後頭部が痺れ、額はぱっくりと割れて出血していた。


飼葉に身を隠し、暗がりを見つめていると、自分はこのまま破壊され、熔解し、腐朽していくのだと思った。

ジョットは孤立無援だった。

自分のみを激励し、搾取した相手の人生が荒野になろうと、能力のない者が自滅しただけに過ぎないと考えていた。自分が弱者となった今、食い物にした人々は今頃恍惚にほころんでいるのかと思ったが、否定する強い感情もわき起こった。弱者は常に弱者であり、また次の強者に搾取され続けるのみ。その円環からに在る今、自らを弱者とするか強者とするか岐路にある。


ならば十分に力を発揮できるような明るみへと自らを曝さなければならない。

ジョットの自律的な志が、再度その身に希望を宿らせた。


肉体的に衰弱していたジョットだったが、船倉の奥で馬の世話をしていた垢まみれの醜男と交流を持った。彼はジョットのことを幽霊だと間違えて命乞いをするような、無垢な男だった。

ささくれた心を癒されながら、長旅を終えたジョットはアクエレイルの地に降り立った。自国から出るとは想定していなかったジョットだが、天啓なのかも知れないと思った。


「ジョット様、お着きになりましたよ」


こちらの顔色を窺う御者が、胸の前で重ねた手をしきりに擦っている。微睡みから覚醒すると、いつもの物音が聴こえず、男の背には一軒家に続く門扉があった。かつて住まいとしていた異国に帰ってきたのかと錯覚したが、家主の意向で異国風に新築された家だと知っている。

ジョットは苦笑しながら馬車を降りた。


「朝から色んなところに足を運ばれてお疲れなんじゃないですか……何もこんな大雪の日くらい休まれたらいいのに」

「お前は昔に比べると言葉遣いがうまくなったね」

「そりゃあ、ジョット様のおかげです」


恩を着せたかった訳ではない。ジョットは男の言葉をどこか残念に思いながら、ただ「そうか」とだけ返した。


「ウグイがきてます」


手袋に落ちてくる粉雪を見ていたジョットの目が、空ではなく御者を仰ぎ見た。御者は地面に視線を落としながら、耳を澄ませていた。


「ほら、聴こえましたか」

「………いや。今も聴こえるか?」

「えぇ。なんだか楽しそうです……ここのみんなの真似をしてるんでしょう」

「どういう…」


御者の視線が門扉にうつると、丁度馴染みの従者が駆け寄ってくる所だった。鐘を鳴らす前に出迎えてもらえるほど上客と思ってもらえている事は嬉しいことだとジョットはいつもの作り笑いを張り付けた。しかし「ようそこお越しくださいました」と畏まった老紳士の目尻に穏やかな笑みが含まれているのを見て、ジョットは今日初めて自然な笑みで挨拶を返した。


玄関の内部を進み、各部屋の前を通り過ぎる。豪勢な家具が見えるように扉はすべて開けられているが、各部屋ともに狭く、窮屈な印象がある。

中庭に通されると、トネリコの庭木のそばに女性が一人佇んでいる。黒い鉄鋏を頭の上にあげている。ジョットは脱帽するとくびれを強調するような張り付いた服を着る女に声を掛けた。


「手伝います」

「…あら! 今日の約束はすっぽかされるかと思ってたわ。甘い物が好きじゃないって言ったことも忘れているくらいですもの」

「女性との約束を反故にしたことはありませんよ。ましてや貴方のお誘いですから。彼らにはいつもお世話になっていますから、せめてもの気持ちです。贈り物で他者を操る方法は夫人の方が詳しいのではありませんか?」

「私は貰うばかりですもの。貴方程ではないわ。ねぇ、あそこの実を取りたいの。腰を支えていてくださる?」

「勿論。先程うちの御者がウグイの声を聴いたのですが、あぁ確かに……」


細腰の曲線に手を這わせながら耳を澄ませる。女はわざと後ろに体重を掛けた。


「貴方はまだあの御者をそばに置いているの」

「無縁にはできぬ相手です」

「自分の美を引き立てる為に置いているのではなくて?」


夫人は堂々と腰をひねり振り返ると、ジョットの唇に舌先を入れ込んだ。

壺の内面を描きだすように這う舌先にジョットは応えなかった。夫人は楽しそうに笑うだけで、すぐに前を向き、再び鋏を持ち上げた。

手のひらに落ちた赤い実を愛撫しているあいだ夫人は男のことを放って置いた。





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