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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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54 美術館と、

真っ白い空間に眼窩と眉毛が浮かんでいた。

瞼に立体的に影が張り付き、それ以外頭も体も付随するものは描写されていない。それは怖ろしいほど奇異で、意味ありげだったが、物言わぬ眼はシャルルを見定めるようにじっと張り付いているだけだった。


「シャルルさん?」

「ああ……ジョットさん。何と言ったらいいか、葬儀はもう済んだのですか」


瞬き、精神世界から戻ったシャルルは、先程仲仕と別れた事務所の前にいる自分を意識した。ジョットに挨拶を返し、先に事務所の扉をくぐる。


書類が整然と並べられた棚、角を揃えて積まれた資料。整理の行き届いた執務室は薄暗く、今朝シャルルが使ったままの状態で止まっている。無言のまま窓を開けて、潮の香りが濃くなるまで窓の縁に手を当てたまま立ち尽くす。

ジョットは機嫌が良さそうで、彼の前に置いた紅茶茶碗の香りを楽しむさまは、商談の時に浮かべる笑みよりも気安く見えた。

彼は茶碗を置くと、隣に視線をうつし、折った指を近づける。まるで細君を愛でるような穏やかで頬を撫でる姿を硝子越しに見た。どうして。どうして?


他者の仕草一つに意味を読み取る己の性質を今日ほど呪いたくなったことはない。シャルルは長椅子に腰かけたが、視線は一切を除け、床に落とした。

彼が何かする度に宝飾が揺れ、主張する。吐き気がした。


「教会での儀式は滞りなく。バティストンさんと有志の方は墓地に同行したので、お帰りはあとになるでしょう」

「そうですか」


紅茶茶碗のまろい取っ手に指を絡め、もう片方の手で茶碗を抑えた。飲む気になどなれない。


「奥様がシャルルさんにもお礼をしたいとおっしゃっていました。葬儀費用を商会の基金から捻出したのですね」

「はい……申し訳ありません。商会の損失とならぬよう補填をする予定です」

「とんでもない、責めていませんよ。万事恙なく手配してくださったこと、とても気が行き届いていると大変お喜びでしたよ」


誰が? ―――――私の主、私を褒めてばかりいる、彼


平時と見分けのつかない時間が、シャルルの心を憂鬱に浸した。存在を無視するということは、強烈に意識しているということに外ならず、それでもシャルルは下唇を噛み、床を凝視しながら腕をさすった。


片腕だけ炙られているように熱い。顔を上げる事ができない。部屋に入ってからずっと視線を感じている。今もなお、頭頂部に張り付くあの眼窩と眉毛だけの何かを何度も消そうと試みていた。けれどできない。突き立てた爪に衣服が波打ち、まくれ上がった。自分が助かる道はどこにもないという気持ちと、たかが子供ひとりと思う気持ちがぶつかり、無駄な抵抗は押し合い、沈黙が時を消費していく。


「………お怪我をなさっておいでです」


少年の硬い声。

自分宛ての言葉だと、気づくのが遅れた。


外見は人の見た目の根拠に基づいてその精神性を捉えるが、彼の声にあったのは罪悪感と、表情に浮かんでいたのは他者への純粋な慈しみだった。

自分やジョットのような角も、尻尾も、尖った耳も、獣の体も、種族を表すものが何もない。無垢な黒髪の少年が、シャルルを見つめていた。


意味を漸く悟ったシャルルはハッと手首を隠した。袖を無理やり引っ張り、自傷の痕を太腿にこするように埋めた。

弁明をしなくてはならない。どうやって。どこから?


少年は唇をきつく結び、長い睫毛に縁どられた眼には不安を兆していた。他者の内情に踏み込み過ぎた自らを恥じながら、それでもシャルルを真剣に案じていることは手に取るようにわかった。言葉より雄弁な表情と視線は、他者の痛みを見逃せないやさしさに溢れていた。


シャルルが思わず、はくと空気を食み、唇を震わせると今度は少年が目を伏せた。


緩く立ち上がった前髪が流れ、影とともに頬にかかる。運命的な美貌に乗る悲しげな眉をそのままに、憂いた吐息が隣から漏れた。ジョットは少年の頬に掛かった髪を指先ですくいとると、丁寧に耳の裏に掛けた。指先はそのまま彼の柔い黒髪を梳き、襟足の向こうに消える。


遅れてシャルルの全身がささくれ立ち、悪寒が奥歯を揺らした。シャルルは最早この部屋のどこにも、通りの向こうの本邸の執務室にも、地下の自室にも自分の居場所がなくなったような気がした。


少年の精神的な領域に、自身が自傷癖のある異常者と捉えられたことなどどうでもよかった。ただ眼前で至上の笑みを浮かべている男の人生から自分という存在が消し去られたのだということが、シャルルに溺れるような錯乱をもたらした。


「あの…医者には掛かっていますか? 見た所新しい傷もあるようですが………すみません、初対面で余りに不躾ですね」


少年は膝の上の拳を足の付け根の方に移動させると頭を深く下げた。

シャルルの頭の中は空漠としている。


「………すみません、御放念ください」

「あ、あぁ……申し訳ありません。わ、わたっ……わ、私も今日は身内の葬式で、今更打ちひしがれているようなのです」


少年の灰色の眼に労わりの色が灯った。


「このような日にお伺いしたこと、お許しください。ジョットさんからも、貴方様が今日もお一人で商談や港湾の人夫の手配まで取り仕切っているとお聞きして居ても立っても居られずお伺いしてしまいました。父からも日頃シャルルさんのお話を聞いています。貴方はきっと、商会の光になると思っています……だから少しでも貴方のお仕事を軽くできるように、私もお力になりたい」

「商会の光………まるでディアリス様の説法のようですね」

「そんなことは………恐れ多いですが」


ジョットの言葉に少年ははにかむ。


互いを映す双眸を絡めあう二人を前に、シャルルは自分の周囲に漂っている死の匂いを感じた。

少年は頬を赤らめ、前のめりになった。


「シャルルさん! 私に貴方のお仕事を教えてください。貴方のようになりたい。父からも許可をいただいていますから、どうかお許しいただけませんか」

「……その前に、肝心のご挨拶をお忘れではありませんか?」

「え? ほ、本当ですか………いや、では………そんな、こんな…あんまりな初対面をするつもりは………」


艶やかな黒髪が項垂れる。「耳が赤いですよ」などといった屑の声はシャルルには届いていない。刹那、現実から剥離したような整った笑顔がシャルルに向けられた。


「ご挨拶が遅れました。私は、レーヴェ。レーヴェ・フロムダールと申します。バティストン・フロムダールの子です……シャルルさん、お会いしたかった」


あぁ――――身震いをしながら目をつぶる。


ジョットは世界から隔絶された青年の全身に滲み出た絶望を、芸術品を見るように眺めた。

この性的象徴の生きた絵画を作り上げたのはバティストン、あるいはジョットだが、仕上げるのはここにいる無垢な少年だと知っているジョットはたまらず笑みを零した。






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