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53/412

53 序曲と、

屠畜場で垢まみれで汚水をすすっていたころ拾われ、長らくバティストンの補佐として働いていたシャルルは、自分が生まれた日を知らない。ただバティストンのために生きるうちに、港に出入りする貿易商の中でも特に優秀な目利きの一人として名を連ねるようになっていた。


肩から斜めに腰で下げ持つ台帳には、彼が把握している百三十の職業とそれを生業とする職人の名前が記載されている。

商品の質、生産量、徒弟の数、取引をしている商人、派閥などが細かく記載され、それら膨大な情報は、蚕の繭を縒って紡がれた一本の糸のようにシャルルの頭に美しく織り込まれている。


幼少より危険を脱する術として常に笑顔を張り付けていた少年は、垢を落とし整った身なりで凛と立ち、その笑みを惜しみなく他者にそそいでいた。彼を前にすると言葉がとぎれとぎれになってしまう。そのような陶酔を誘う色香があった。

港湾で働くむさ苦しい男達と比べると細すぎる体躯だが、蔑む者より息子のように思う者の方が多い。

バティストンからの苛烈な暴行、言い換えれば躾を黙って受けていた少年は、炎に鍛えられた鉄のように美しく変化した。水と火の責め苦を耐え抜いた男に親近の念を向ける者が多いのは、躾の対象が幅広かったせいだろう。


台帳に書き記しながら荷卸し場を歩く姿は日常となっており、今日も歴然と港に姿を見せた彼は若い体に汗を光らせていた。


中央地区から鐘の音が響いた。最古の鐘楼が正午を報せた。


船倉の輸出品の確認をしていたシャルルの耳にも余韻が届き、紅潮した頬に手拭いを押し付けながら顔を上げた。


「お昼ですね。切り上げましょう、お疲れ様です」

「うむ」と短い返事、バティストンより年上の老人は咳き込み、痰を海に吐いて捨てた。

「港湾部への報告は私が。今日は出勤してくださってありがとうございます。あの方はきっとあなたが来られないと大変残念がっているでしょうから……」

「別れはとうに済んでる。気を回すな」


教会から葬送の列が出発した頃合いだろう。それは互いにわかっていて、朝からこの話題は避けていた。けれど老いてもなお鋭い眼が、一瞬教会の方角を見たことに気づいた時、言わずにはいられなかった。

長く商会に勤め、荷卸し場でも奮闘してくれた馴染みの海の男は、浴びるように酒を呑み、眠ったまま起き上がることはなかった。今日の葬儀には商会から多くの者が参列していたが、入港する船を放っておくわけにはいかず、シャルルを始め何人かは通常通り出勤してもらっていた。


「さっきの話だが」


船と陸をつなぐ板をさっさと下りて行った老いた仲仕が振り返る。口数の少ない男が今日に限ってわざわざ自分から会話をつなげてくるのは、人が少ない事を良い機会だと思っているのだろうか。シャルルは「昼飯の話ですか?」とわざとはぐらかした。老人は如実に不機嫌な顔をしたので笑ってしまう。


「お前さんが次の頭になれといわれたらなるのか」

「さぁどうでしょうね」

「親方はもう随分と顔を見せちゃいねえ。かといって本宅の方にもいねえ。なんでも良い服着てお偉いさんに媚び売ってるっていうじゃねぇか、くだらねえ」


本宅というのはバティストン商会の拠点であり、彼がやっとのことで手に入れた商会の顔となる華美な建物だ。

シャルルは短く吐息をはいて、老人と共に商会の港湾事務所に向かって歩く。縄を小脇に抱えた人夫が遠ざかるのを確かめてから口を開いた。


「……そういう事は私にだけ言ってくれてるといいんですが。余りに危ういですよ」

「みんな口にしねえだけだ。顔見せねえやつより、ここを知ってるやつに仕切ってもらいてえってな。当然だろ」

「それなら今のままでいいじゃありませんか……それにそんな事をしたら、こんな風にお喋りに興じる事もできなくなってしまいますよ」

「その頃にはとっくにくたばってるさ」

「その手の冗談は聞きたくありません……」

「生きてるうちに拝ませりゃ聞かなくて済む」

「……それは、……そんな風に…卑怯ですよ」


咳と笑いを一緒くたにした声をあげた老人は「考えろ」と言い残し、一人で事務所の中に入っていった。

シャルルは立ち止まり、背中を見送る。


これまで同じような話を持ち掛けてきた男はいた。みなシャルルの胸に火薬を詰め込めるだけ詰め込み、肝心の導火線は預けてくる。火を付けろと焚きつけ、自分では何もしない。


彼らがバティストンを、現場から離れて富者の一員になろうとしていると感じ、冷めた目を向け始めていることは気づいていたが放置していた。確かにそれは正しく、その通りであるからだ。男達は自分と同じように汗を流し、仲仕を家族のように守ってくれたバティストンを求めていて、その心が別の方向を見てしまっていることに失望している。


けれど、富者と関係をつなげることは商会を広げ、延いては全員の働き口を守ることにつながる。酒屋でくだを巻き、明日も省みぬほど飲み明かす男たちを、雇いあげ、酒代を生み出しているのはバティストンだ。

目に見えて自分たちのために動いていないと感じるから排斥しようとする。そして後釜に担ぎあげられる。それはきっとシャルルがここで汗水垂らして働いているからに過ぎず、挿げ替えられる首は誰でも構わないはずだ。


(………商会も何も、欲しくなどない)


ジョットも、近い将来自分を異国に連れて行きたいと言っていた。シャルルは海の向こう、空と海の境をぼんやりと見つめた。そうしていると青と白が溶け合い、泣きそうになった。


シャルルの胸にあるのは、寂しさだけだった。


バティストンとはもう定期的な収支報告をあげる時のみ顔を合わせる程度になってしまった。それはとても短い逢瀬で、その時間は幸福を溶かしたようだったが、終わってしまえば苦しかった。

彼の服装は見るからに高価になり、少し筋肉が落ちて、一回り小さくなったような気さえした。自分の背が高くなったからだと気づいたが、顔が近づいてもバティストンの視線はシャルルに真に注がれることはなかった。


業務を円滑に行い、取引さえおこなうようになったシャルルに感謝を伝える声はとろけるほど優しかったが、そこに鋭く暴れる熱はなかった。

昔のように、酷く乱暴に扱ってほしかった。この世のあらゆる不満を注ぐように使い捨てにして欲しい、そして同じくらい何度も求めて欲しかった。


無限に飢えた穴がシャルルの胸に広がり、それを塞ぐ異国の男の顔が浮かんだ。

日が山陰に落ちたあと、行為に及ぶその闇の中で、がんじがらめにされる時だけは寂蒔を遠ざける事ができた。白布の上を泳ぐ手はすぐに絡めとられ、内側に踏み込まれる。その無遠慮さに虜になった。


喉を貫かれるときに齎される感情が、唾となって溢れた。嚥下していると、背後でシャルルを呼ぶ声が掛かった。


「ごきげんよう、シャルルさん」


派手な羽根飾り付きの帽子が視界に入って、弾かれるように頬があがった。

―――そしてこちらを見上げる瞳と目が合った。ジョットの隣に見知らぬ少年が立っていた。






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