52 階段の先と、
ひさしが長く突き出した半球型の帽子、
袖の膨らんだ上着、
細かい切り込みの入った長い袖、
金銀細工の腰帯、
白豹の裏地、
紋章付きの外套を引きずって歩く、人、人、人、人の波―――――
華やかな訪問着に身を包んだ男女が、相槌をうちながら談笑している。流暢に口を動かし、肩を上げ下げし、口調、態度に気を遣って小さく口を開けて笑うさまは、いかにも富者で、つまりバティストンは一瞬で圧された。
萎縮する男の前にスッと体を差しこみ、杯を手渡してくるジョットの眩い男ぶりといったらない。一段と声を潜めて礼を言うと、頷いて「では肩慣らしといきましょう」と誘導される。
ジョットはまずシュナフス領の商人夫妻を紹介し、その後も何組か同業の者と引き合わせた。商人同士、話のとっかかりには苦労しなかったが、段々と口がまわり始めると、宴に相応しくない込み入った話を振ってしまう。空笑いだと気づかない俺を、横からうまい具合に引き戻してくれる男に何度も助けられた。
刻んだ餌をどこで放てば尾を引くのか、そういったことを熟知しているジョットに女たちは見事に釣られ、頬を染めてはにかんでいる。きっと俺がいなければ壁の向こうに消えてしばらく戻ってこないこともあるのだろうなと、バティストンは妖艶に笑う男を横目に杯の果実酒を飲み干した。
交流は楽しかったが、人々の言葉はどれも上辺の褒め言葉や、遠回しの見下しだということに気がつくまで時間はかからなかった。最初は褒められて喜んだものの、最後には味わうことができなくなった。着飾った美しさがかえって空しい物に映る。
「何を言っても上の空ですね」
「そんなことは……」
ないとは言い切れず、口ごもる。ジョットは小さく笑った。
「釣り合わないと考えておいででしょうが、歓談している大半が整飾して見せているだけです。虚栄心を満たすだけしか能のない者達に、引け目を感じる必要はありませんよ」
ジョットは静かに木々が赤らむ庭を見つめている。
「清らかな水に漂う虹色の膜がどんなに美しかろうと、汚されていることに変わりはありません」
天井に飾られた照明を背に受け、男の顔に深い影が落ちていた。万能に見える異国の友も、耐えがたく思うようなことがあるのだろうか。それは今聞くべきことではない。
崖上にある饗応の間に海風が吹きこんだ。風はジョットの羽根飾りを乱し、バティストンの喉に滞留していた言葉や身辺に満ちていた澱みをすべて拭い去り、最後に大理石の階段の上へ抜けた。
そこに男が立っていた。長袍礼装は揺るぎもせず、自信に満ちた眼差しが盤上を眺めるように招待客に注がれている。
「大主教様…!」
最初の声に、全員同じ方向を見て即座に膝を折った。
肖像画と同じ仰々しい風貌を持つ男は、言葉の代わりに錫杖で力強く床を突いた。繊細な音が雲を晴らすように広間一杯に広がる。
真っ白い肩衣、深紅の頸垂帯に、赤い手袋。司教冠には三重の宝飾が取り巻いている。
この国に四人しか許されない大主教の名を冠する者――――海港都市を統べるディアリス・ヴァンダール大主教は、無言のままにその場を制御しいていた。
バティストンの目にも人の形をした権威がはっきりと映った。体は燃え滾り、握りしめた拳が震えた。近づかねば。
その時ジョットが先に動いた。人々のざわめきの中にするりと入り込み、階段の下で再び膝をついて頭を下げた。そばに寄ったバティストンの幹のような足にジョットの手が触れ、ぽんぽんと叩かれる。同じようにしろと。バティストンは急いで膝をつき、胸に手を宛てて瞼を閉じた。
後ろで同じように膝をつく者たちの気配を感じていると、二人の前に静寂が近づいてくる。居並ぶ男の耳に、「しゃん、しゃん…」と錫杖の透き通る音色が響いた。
バティストンの心臓は不規則に跳ねていた。
「異国から参られたトリパノの客人よ、我が国の印象はいかがかな」
――――大主教の声! バティストンは大きく目を見開いた。
「は。各地を訪問し、アクエレイルの大聖堂も見ましたが、この都市の春風駘蕩とした景観には心を打たれました」
「貴国では二節前、大嵐に見舞われ、その後の日照りで水不足に困ったということがあったが、国交の必要さを痛切に感じたものだ」
「遺族への追悼のお言葉をくださり、そのほかにも多くの援助くださったこと、国民を代表し心からの謝意を申し上げます」
「親愛を受け取ろう。気の毒な者達が幸福を手にするよう願うばかりだ」
バティストンは言葉のひとつひとつを残さず読み取ろうと集中していた。脱帽して胸に帽子を抱いたジョットさえ、まだ俯いているのだから頭をひくりとも動かすことはできない。
目に見えぬ障壁と相対しているような気分だった。常に「もっと下がれ、もっと下がれ」と押し付けられているように思えた。バティストンは生唾を飲み込みながら、絨毯の上でぎょろりと視線を動かし、そして好奇心のままに少しずつ視線を上に上に動かしていく。足の短い絨毯の上、白い裾が見えた。裾から短靴の先が微かに覗いている、足先はジョットの方を向いていた。
じっと見ていると靴先がバティストンの方を向いた。その瞬間、頭が真っ白になった。ジョットのことも、周囲の視線もかなたに置き去りにし、自分から顔を上げて大主教と目を合わせた。
教会は民に寄り添い、共に歩くものとして、多くの親愛と敬愛を集めている。その為、本来であれば膝をつく必要も、目線を合わせてはならないという決まりも、声をかけるまで動いてはならないなどといった決まりもない。しかしこの都市では、この邸の中に入る事を許された者には暗黙の了解であるものを、今バティストンは公衆の面前で破った。
それは酷く礼儀の欠いた行動に見え、従者や招待客は俄かに殺気立つ。長く瞼を瞑っていたバティストンは目がくらみ、明かりを背にした大主教の全身が真っ黒にすすけて見えた。
「初めて、お目にかかります! この町で商工会総取締をしているバティストンと申します」
視線を合わせただけで、自分の凡庸さは見抜かれているだろう。だから相槌をうってもらうことも、話を聴いてもらうことも期待せず、先手を打った。
「濫觴の民」
バティストンがその言葉が解き放たれた瞬間、世界が変わった。
大主教は翠玉の指輪をはめた指をひとつ立てた。ざわめきが収まり、それはバティストンを許したというしるしでもあった。
「お前の名は」
「バティストン・フロムダール……」
「バティストン……」大主教は舌先で名を弄んだあと、目を細めて笑った。




