48 美しい対価と、
少年の頭上で金の装飾が甲高い音を立てて揺れていた。
ジョットの顔は見えなかった。見るには自分の目を開かねばならない。少年の顔に掛かった巻き髪が、体の揺れに合わせてさざ波のように行きては帰る。汗ばんだ肌には宝飾が幾度も降り、散りじりになった意識はその度に引き戻され、少年の涙に濡れた目はとうとう開いてしまう。
抱かれる前、入浴をした。
商会の地下にも住み込み労働者のための浴場があるが、水浴びをする程度であるため、桶と汚水を暗渠に流す穴があるだけの簡素な作りだった。お湯に浸かり、石鹸で体を洗うといった習慣など下民にはなく、少年にはそういった知識はあったが、経験などなかった。
少年はいつものように済ませようとしたが、案内された浴室の作りの違いに圧倒された。とにかく豪華で、白く、穢れが無い。置かれているものすべて見たことも無かった。しばし無言で立ち尽くす。ジョットはそんな風になることを想定していたのだろう。手紙の中の彼と同じく、とても真摯に、甲斐甲斐しく入浴作法を教えてくれた。
自分の環境からかけ離れたものに囲まれて尻込みする気持ちと、陽の光より明るい場所で見る男の横顔に、少年の意識は次第に霞んでいく。袖をまくり、うなじを洗ってくれる大きな手に、息が詰まる気がした。
「お帰りなさい、バティストンさん」
雨が上がり、アナベルの花が咲く頃、バティストンさんが商会に顔を出した。久しぶりに見る彼の顔は日に焼け、疲労からか少し老けたように見えた。
かといって力強い眼は変わらず、さっそく机上に溜まった決裁書類を手に取っている。
時折「おい」と言われ、少年は頷き、事務作業の対応をした。言葉など無くとも、何を言わんとしているか理解できる。和やかな気持ちが少年の心の裡に広がる。
一通りの残務を終えたところで、少年は意を決し、書類をバティストンに差し出した。
上等な紙面からして商談に関することだと察した彼は、目を一瞬細めたあと、紙面に商人の厳しい視線をぶつける。その間、ずっと立っていた少年はいつもの笑みを浮かべる事はできなかった。口当たりの良い、物事を円滑に流すための笑顔を浮かべなければならないとわかりながらも、顔の筋肉が強張り、腹の上で重ねた手を鬱血するほど強く握りしめていた。
「フランデレン商会のジョット……懐かしい名じゃねえか。随分前に取引をしたことがある…胡散臭ぇ野郎だった」
紙面を捲る音だけが響く。
「フランデレンとうちの新規先物取引……採掘前に現物がねえ状態での空取引による鉱石価格の平準化……併せてアクエレイルに販路を持たない向こうの商会をまとめて、うちとの独占契約………おい」
「証拠金は既にいただいています。損失が出た場合の担保としてご利用くださいと」
「取引に不備があった場合は」
「代替品を用意するか、できない場合は補填を要求する権利があります。詳細は次の紙に記載しています。」
「…てめえが噛んでんのか?」
足元を粘液に取り巻かれたかのように少年の膝は折れそうになった。
バティストンの視線はそれほど鋭く、焦った少年の口からは必要のない言い訳が飛び出た。
「は、い。バティストンさんは橋の補修工事に死力を注いでいらっしゃるので、商会のお仕事を少しでもお手伝いしたいと、勝手ながら……ですが、ぼくは……わたしは貴方を……貴方を」
口から出た言葉に自分の耳が燃えるように熱くなった。まともに話せていない。自分の声が反響して何も言う事ができなくなった。いつの間にか瞑った目を恐る恐る開けると、足元に大きな木靴が見えた。自分の方を向いたその靴には、泥が付着していて、洗ってさしあげたいと思った。
「よくやった、シャルル!」
頭の上に重みを感じ、そのあと大きく揺り動かされた。乱されるままに少年は瞠目し、口を開けていた。
頭を撫でてもらえたのだとわかった時、唾液がばっと咥内に飛び出た。慌てて嚥下すると、喉が潤うのと同時に目頭に熱が集まった。
「俺の仕事をよーく見てやがるじゃねえか。それでいいんだ」
ほとんど信じられなかった。けれどまだ手の感触も重みも残されている。今度は優しく叩かれた。まるで子供を褒めるように。愛する者を労うように。
少年は今気が付いた。彼が手のひらで撫でたものは、少年の人生すべてだった。ずっとこうして欲しかった。ずっとこうされたかった。はい、と答えたかった。けれど涙を隠すことに必死でできなかった。
潤んだ瞳からぱたぱたと雫が零れ落ちる。部屋の中を何か神聖なものが過ぎ去った。そんな気がしていた。
(あぁ――――ぼくは確かに生きている……生きているんだ……)
男の呻き声に、椅子から寝台の上に腰かける。
男は今、実に大人しく、白い布に包まれ眠っている。汗ばんだ肌に張り付いた髪を避けながら、わざと肌に指を滑らせる。けれども男は反応を示さない。
治癒術は充分に施し、体の痣も消した。鬱血した脇腹も、血栓により変形してしまった箇所も、すべて治した。
なのにどうして、リーリートは考える。
シャルルの顔色は悪く、うわ言を吐きながら体を震わせている。熱を持った体に何度呼びかけても、休む暇もなく、意識は止め処なく下降していくだけだった。
リーリートは体を倒し、シャルルの額に唇を合わせた。両耳に手を添え、理力を流し続ける。
これは自分への報いなのかも知れない。彼の想いや肉体を軽視したことの報いを受けている。そう思うと、焦燥や後悔が、リーリートの耳に罵倒を流し込んだ。
(苦しめるのなら私に……私にしてくれ)
窓辺から一羽の鳥が飛び去る。
羽ばたきはリーリートには届かずに消えていった。




