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47 誘惑と、

執務室に入ってきたのは、一人のトリパノ族の男だった。

肌に黒と白の縞模様、ふさ状の尻尾を持つトリパノらしい見た目の背の高い男だったが、一際目立っていたのは肩幅よりも大きな羽根帽子だった。顔の前に垂れた羽根が、男が動く度に上下し、近寄ろうとも弾きだされるような気にさせた。


巻き髪は上等な外套の上に流れ、釦も留めずに晒された胸元に大量の宝飾品が乗っている。帽子のせいで片目が見えないが、男は華美な笑みを浮かべた。顔だけでなく、歯列まで整っている。笑顔はこれ見よがしに無害だと言いたげで、少年は胸元に手を宛て挨拶を交わしながら、硬い顔を崩さなかった。


「私に御用とお伺いしましたが、我が主への訪いではなく?」


男は声を立てて笑った。無礼な態度に少年の視線が軽蔑の色を含んでも、なおのこと白と黒の模様の入った手で顎をさする。少年は男を執務室に招いたことを後悔し始めていたが、同時に主が不在の今はどんな用であれ自分が商会の顔として立たねばならないと少年は考えていた。男の身なりは豪華で、帽子と同じく懐の羽振りも良さそうだった。


もしここで商談の一つでもまとめられたならば、大工事に掛かりきりになっているバティストンさんが帰ってきた時に自分の身以外に捧げる物ができる。ならば目の前の得体の知れない男が話すことは余すことなく主の利益としなければならない。少年は男に長椅子を薦める。

外の湿った空気をまとった男は雫のついた外套を脱いだ。はだけた胸元で首飾りが音を立てて揺れた。


「おっしゃる通り、本日は貴方様にお逢いする為にやって参りました。こちらはこんなにも天候が悪かったのですね、海路はとても快適であったので驚きました」


海路―――少年は水差しを持った手をはたと留める。


「御元気そうで安心致しました。お手紙では体調が優れないとありましたので」

「まさか……ジョット様?」


少年の瞳が揺れ動く。男は嬉しそうにその揺蕩いを見つめ、顔の横に右手の甲を掲げて見せた。刻印のついた指輪が中指に嵌められている。その印章は、少年が長くやりとりをしていた封筒に刻まれた紋様と同じものだった。

体に白と黒の模様の入った獣が、後ろ足だけで立つ雄々しい姿。少年の作業机の引き出しに、同じ印章の刻まれた封筒が大事にしまい込まれている。


少年は、歳相応の満面の笑顔を浮かべた。


「まさか、本当にいらっしゃるとは思いもよりませんでした。商談でアクエレイルにいらっしゃると手紙にありましたが、それはもっと節が和らいだあとかと…」

「報せもせずご迷惑でしたか?」

「そんなまさか! 貴方様には大変お世話になっていますから、きちんとしたお礼を差し上げたかったのです。お逢いできて嬉しい。とても……………貴方がそんな方とは…」

「風変わりな見た目でしょう?」

「いいえ、とても雄々しく、豪奢で素敵です」

「ご存知かと思いますが商売柄、顔を覚えてもらう為に目立たなくてはならないのです。それに異国では、母国の代表ということになりますから。個人の嗜好ではなく、このような派手な装いになってしまうのです」

「ご立派なお覚悟だと思います。あぁ、もっとお話を」

「良かった。ではこれから食事に付き合っていただけませんか」


少年はハッとして、目を伏せた。

自分がいとけない娘になったような気がした。嬉しくてたまらなかった。


ジョットとはこれまで何度も手紙でやりとりを重ねていた。文面での彼はとても真摯で、少年を気遣い、知識を与え、励ましてくれた。

初めて逢ったのはもっと幼い頃だったが、いつものようにバティストンに殴りつけ、ボロ切れのように扱われていた。それが丁度、彼との商談の最中だった。それらは躾であり、日常的な行為であったため、少年は血を吐きながら謝罪をして部屋を辞した。じくじくと痛む体を押さえながら雑用を片付けていると、商談を終えて一度は帰ったはずのジョットが少年を訪ねてきた。誰にも聞こえぬように声を潜め、傷の手当てをしてくれた手を覚えている。


商会に届く手紙の中に、少年に宛てた文章が紛れていると気づいたのはそれからしばらくのこと。ジョットという名前もそうして知った。

取引の取り分についての硬い話のあとに少年の体と心を気遣う文章が綴られていた。そしてもう一枚。白紙をめくると、押し花があった。色褪せ、縁は薄茶に変色していたが、元の色を想像して少年の心は温かくなった。異国の文字が読めるのは自分だけであったことも後押しし、社交的なやりとりから始まり、仲を深めていった。


すべては紙の上でのこと。それが今、海を越えて少年の目の前で、話し、笑っている。


「……お顔をはっきりとお見かけするのは初めてです」

「そうですね。最初に逢った時は、貴方は顔を殴られて目を腫らしていましたから」

「でもお声は覚えています。そのお声を」

「貴方も大きくなられました。体つきもですが、商会の右腕としての手腕を磨かれたことも、私の国にも届いておりますよ」

「まさか、そんな風におっしゃって………ジョット様? おだてるからには何かご商談がおありなのですね」

「えぇ、それもあります。船にたくさんの商品を積んでまいりましたので、貴方に見て頂きたいのです」

「当商会の主ではなく…?」

「選りすぐった商品を持って参りましたのでバティストンさんに気に入っていただける自信はあります。しかし私と彼の間で握手をするのではなく、貴方が間に入って欲しいのです」

「どうして」

「貴方の手柄にしていただきたい。そうすれば更に重用され、よい良い環境に身を置くこともできましょう。まぁ正直に申しますと……」


ジョットは卓上の紙を手に取り、使用してもいいか聞く。少年は勿論と、頷き、尖筆を渡した。

差し出された紙片には異国の言葉でこう書いてあった。


―――――成果をあげていただければ貴方をうちの商会に引き抜く口実になる。


男はこの国の契約に詳しいのだろうか。少年は一瞬考えて、ジョットの視線から答えを読み解こうと深く見つめた。

少年の身分はあくまでバティストンの所有物に過ぎず、国外への移動は禁じられている。

この申し出には裏があるのだろう。その餌に飛びつくには、少年はまだ男の生の感情を知らず、身にはバティストンへの熱が詰まっていた。

紙片を裏返す。


「私が主人の為に成果をあげることと、こちらに書かれていることとは引き離して考えさせてください。まずは商談についてお聞きして、それからです」

「えぇ、構いません。本当に立派になられましたね。ではこちらを受け取って下さい」


男は胸元から黒塗りの札を取り出して机の上に滑らせる。少年は受け取るために手を伸ばしたが、札をめくろうとしてもジョットはまだ押さえつけていた。


「私の宿泊場所です。商談の詳細はこちらで」


少年の手が硬直する様を注視している眼は、花を見るように穏やかだった。少年は喉の渇きを覚えたが、喘ぐほかにできることはなかった。






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