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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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46 狂劇と、

バティストンは女の腰に腕を回し、口づけた。


女を買うには前払いが鉄則だが、風呂屋は彼が作った王国である為、支配人は大股で入ってきた大男に会釈をしただけで陰に徹して業務を続けた。

奥の廊下から女が駆け出してきた。薄い絹の裾を引きずりながら、それが風になびいて美しい流線を描く。女はバティストンに抱きつくと踵をあげた。男も背中をかき抱き、受け止める。人目も憚らず始まった濃密な接触の後ろで新しい客を受け入れ、金額と交換に浴場への扉を開く。


待合所に並んで座っていた漁師たちは、男の愛撫によって女の肌が赤く染まっていくのをみて思わず丸めた指を口に含み、高い音を鳴らした。女は観客に憚る様子もなく、むしろ自分の痴態は贅沢なものだと主張するように漁師たちに目線を向けると、腰を揺すってみせた。女の体に張り付く薄絹の奥には、肌と恥毛の色が透けて見えた。熱のこもったどよめきと、鈴を鳴らした様な笑みの間でバティストンは怒りに燃え上がった。蔑ろにされたと思った。


「気になさらないで。あの方たちは私に触れられないもの」


女は愛らしく体をしならせる。弾力のある硬い筋肉に胸を押し付け、衣服に焚き込めた香りとともにバティストンの怒りを封じる。


「ねぇ? 私がここまでお迎えに上がったのは貴方に放って置かれて寂しかったからなのよ」

「……昨日も来てやっただろう」

「足りないの。あぁ、かわいいひと。その嫉妬をはやく私の中にそそいで頂戴」


女は、バティストンの手を取ると自分の腹に押し当てた。あやす様な目色で微笑みながら、男の手を徐々に押し込み、「ここよ?」と言った。

意味を理解した瞬間男の心は獣に変わり、怖ろしいほどの速さで女の虜になり果てた。今すぐ組み敷いて、自分以外を視れぬようにしてやりたい。


華奢な女の手に引かれ、奥の部屋に進む。バティストンは女の前だといつも口数少なく、いつも雑多な商売頭が簡素な作りになってしまう。いやだ、いい、ちがう、そうだ、そんな風な稚拙な発露しかできなくなる。せめても眉を顰め、不愛想な相貌を作るが、女の乳房が揺れ、その白い体が火照り、汗ばむだけで身がよじれるような幸福に埋もれた。


情念は母親の腹の中に忘れてきたのだと思っていた。そんなもの必要のない人生だった。だが、女と出逢い、誰かに寂しかったと言ってもらえることが嬉しいのだと知った。かつて自分が感じぬように押し込めたものを、誰かに受け止めてもらいたかったものを、こうして直截に向けられることが嬉しかった。


突然女が振り返る。バティストンは肩を上下させ、一瞬動揺を見せてしまった。慌てて眉間に皺を寄せる。しかし女はやや強い日差しを見つめた時のように、目を細めて笑みを湛えただけだった。そんなことで涙をこらえた。


部屋に入る直前、女は扉に体を寄せながらバティストンの顔を見ずにこう言った。


「貴方に贈り物があるの」








売買の決済、教会に納める地代の納期、税務監査。それらを無事乗り越え、机に山積みになっていた書類がいくらか片付いた時には季節は移ろい、長雨の日々に突入していた。

バティストン商会の執務室、少年は静寂に腰を下ろし、窓辺で往来を見つめる。分厚い雲が空を覆っているせいで、門灯をつける程度に通りは薄暗い。


荷台に金字で社名が彫られている豪華な馬車が過ぎる。馬の蹄が忙しなく泥を飛ばすが、荷台の更に後方に座っている御者は泥はねを食わらない。目当ての馬車でないことに肩を落とした少年は、なおも瞳を動かし、弓のように背中を反らせて窓に張り付いた。バティストンはしばらく帰っていない。


先頃の大雨で海港都市の北部を流れるカタニア川が氾濫し、あふれた水が都市北部に押し寄せ、多くの家屋を破壊した。

濁流に押し流された人々は海に消え、そして波に戻され、岸辺は骸と材木に塞がれる。腐敗し、悪臭に汚染された都市は窮地に立たされた。教会の主導のもとあらゆる手が打たれ、カタニア川に唯一かかっていた橋の修繕は商工会の手に委ねられた。


商工会の中心を担っていたバティストンは、工事の総指揮を執っている。水中に残った橋桁を利用した堰を作り、水を汲みだしてから木材を打ちこみ、石や粘土を積み重ねる。これまでの木製の橋から、強固な石造りの橋の新設を始めている。雨はなおも降り続いていたが、勢いは収まっている。橋建設のために多額の私財を投じ、バティストンは熱意をくべて一心に取り掛かっていた。彼が憎み、苛立ちの源流としている教会に名を売るまたとない機会だった。


アクエレイルへの陸路が封じられた今、男の双肩に数千人の命が乗る。

男は色々と欠点はあったものの、臆せず着々と事業を進める度量と、人を駒にして舵を取る能力には秀でていた。きっとやり遂げるのだろう。


執務室には作業費や進捗といった類いの報告が届くため、少年はバティストンと顔を合わせる機会がなくとも、心の余裕を持つことが出来ていた。


「補佐、お客人です」


窓辺に白い息を残して振り返ると、遠ざけていた仕事机の前に戻る。

管理帳を確かめても来客の予定はない。


「どのような素性の………バティストンさんの所にご案内した方が良い方ですか?」

赤ら顔の受付係が首を振る。

「親方ではなく、貴方に逢いたいとおっしゃっています」

「私に?」






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