45 消色と、
金のあるところに人は寄り、富者はさらに金を得る。
ならば貧しくひどく苦しむものたちは、富者に媚びへつらい、与えてもらえるよう努力しなければならない。
バティストン・フロムダールが商人として成功し、所謂【豪商】の仲間入りを果たしたと実感したのは、海港都市で指折りの富裕層の住む通りに家を構えた時だった。
家の一階には男が取り扱う様々な商品が集い、必要な手続きが完了したものから市場に運ばれ、売りさばかれる。奥には徒弟の作業場があり、最奥にはバティストンの執務室がある。部屋からは毎日男の罵声が響き、今日も仲介を持ち掛けた行商人が悲鳴をあげながら退室していった。廊下にはそれでも男に目通りを願う者達が列を成している。
壁一枚挟んだ場所で作業していた徒弟たちは硝子が割れる音を聴いたが、男の気性の荒さには慣れきっていた為、それは鳥の囀りと同義だった。手仕事から顔をあげる者はいない。
同じく執務室で計算板を片手に事務をこなしている一人の少年も、雇い主が床に唾を吐こうが、苛立ちのままに花瓶を割り、ついでに罵倒されようが、笑顔を浮かべて仕事をしていた。
机を挟んでおこなわれた商人同士の会話を聞いていなかった訳ではないが、バティストンの罵倒はほとんど独り言で、少年には答えようがない。男は少年のことを空気のように扱う時もあれば、物のように扱う時もある。その波を少年ははかる事などできない。少年は、等間隔に引かれた罫線の上に色つきの石を置き、移動させ、桁の大きい計算をこなしていく。ただ仕事をする。
バティストン商会で扱っているのは、毛皮、絹、葡萄酒、各種香辛料、仔牛肉、鹿肉、鉄製品、蝋燭、古着、紙など多岐にわたるが―――何より高価なのは理力を蓄積した鉱石だ。買い手は国内よりも海の向こうの異国が多い。
(原石、加工済みの理力石、……………高等級の理力石、……これは桁をひとつずらして………)
平たい石を四つ移動させたところで「聞いてんのか!」と殴り飛ばされた。
軽い体はぐしゃりと殴られるままに倒れ、机の端に積まれていた手紙が散乱する。それはすべてバティストン宛ての商用の手紙だったが、その検分と返信は異国語のできる少年の業務だった。
少年は笑顔のまま起き上がり、手紙をかき集め、まだ罵倒しているバティストンの顔を見上げた。次の瞬間、横腹に衝撃を受け、床を転がった。木靴の先端が肋骨を押し込み、数秒呼吸ができなくなる。少年は喘ぎながら毛の長い絨毯を掴んだ。バティストンは部屋で一番目立つ豪華な椅子に腰かけると、煙草に火をつける。片手で広げているのは少年が今し方つけていた帳簿だ。
「できてんじゃねえか………教会の監査が入る前に書き換えろよ。とちったらどうなるかはわかってんな」
「はい、バティストンさん」
「どいつもこいつも教会、教会…そんなに白服がこええなら、異国にいきゃいいのによ! お前もそんな良い服着て、座ってりゃいい仕事もらって。お前みたいなひょろいギンケイはなぁ、俺が拾ってやらなきゃとっくに迎えがきてんだよ。なぁ」
「はい、バティストンさん」
「ちッ、今日は終いだ」
顎でしゃくられ、少年は廊下にでて大人たちの列に向かって頭を下げた。「お気の毒ですが本日は……」文句を返す者はいない。みな、その目に浮かべているのは失望ではなく安堵で、部屋の中の大男の機嫌を損ねる前に去っていった。
少年はふと徒弟たちの詰めている部屋の前で足を止めた。中から愛嬌の無い一重瞼の男たちが出てきてすれ違った。作業のし易い揃いの服を着た彼らは、詰襟の身なりの整った少年のことは無いものとして扱うが、廊下の真ん中に立っていた少年をわざわざ避けて出て行った。
作業部屋を通り過ぎる瞬間、朱銅の鉄瓶から湯のたぎる音がした。半分開いた扉の向こう、少年の目はそれらに吸い付き、離れなくなった。
中では羊の角を持った少年たちが二人向かい合って笑っていた。屈託のない顔で、雑談にかまけ、一息ついている。
それは少年の小さな目には輝いて見えた。
やがて執務室の中から少年を呼ぶ声がした。痰の絡んだがなり声だった。
執務室は行き止まりだった。少年の人生の先端、そして最奥。人生の取っ手を捻ると、舞台の真ん中には、男が刃物のようなぎらついた目で少年を見ている。自分の舞台の上だというのに、少年はただ黙っている。
「来い」
男の前に立って、下衣をくつろげる。何事もない眺めだった。
終わりはいきなり訪れ、「風呂屋に行く」いつも通りの一言を残して、男は部屋から出て行った。
体を洗いに行くのはついでで、今度は女を抱きに行くのだ。こちらの気持ちとしては気楽でいいが、どこまでも生を蹴散らすのが好きな男だから、相手をする女もさぞ苦労がある事だろう。絨毯の上に倒れながら、ぼんやりとそんな意味のない考えを巡らせた。
「仕事をしなきゃ……」
立ち上がると、窓辺の下の方に映った自分と目が合った。
首筋には露骨に締めあげられた痕があり、視線はそのままに顎を横に向けると指の形がくっきりと残っている。
「あっ……」
少年はうっそりと笑った。痣を何度もなぞり、自分の小さな手を重ねる。
男に自由に使用されたという感覚が再び少年の胸に広がり、余韻をあますことなく啜る。あの男にとって、男女両性と味わう交接は快楽ではない。腹に蓄えた脂肪の中にあるのは教会に対する不満と不安で、さらに非常に深い所には幼少期の飢えと身売りの苦しさがあるのだ。心は常に大海で溺れ、他者を道ずれにしようとしている。肌のぶつかる音が頭の中に響いた。
少年は初めてその接点を耳にした時、自分の体が作り替えられていくように感じた。
腹の膨れた粗野で暴力的な男が裏に秘めたものに触れ、好かずにはいられなかった。自分だけがそれを解っていればいいと思った。ずっと、ずっと。
「ふふ」
少年の優艶な笑みが窓に映る。心置きなく嬲られるほどに昂揚を得る笑みがそこにある。
 




