44 空虚な口づけと、
二人のゾアルの足音が遠ざかるまで、シャルルは息を潜めていた。
部屋を満たす静寂は、自分が口を開かない限り終わらない。これからどうすれば良いか、一つ残らず分かっている。けれども扉に額をつけたまま動くことができなかった。高熱に浮かされる頭の中は愚図つき、絶えずひとつの想いに占められていた。
茂みの中に人影が一つ。木片を振り上げた男、その視線の先にあるものを視た。シャルルの心はその瞬間爆ぜて、暴虐の限りを尽くして男の命を奪った。脅威は去り、二度とあの男は起き上がらない。けれど頭の中では雷鳴と稲光が絶えず炸裂し、白と黒が入れ替わる間に木片を振り上げる男の姿を何度も映した。シャルルはまだあの森の中にいた。
扉を押して反動をつけ、軸の折れた体を立たせる。片足に体重を乗せただけでふらついてしまい、手近な机を手で押し動かしたが、転げ落ちそうになった無花果をついでに掴んだ。果実は柔らかく、それだけで飢えた喉が鳴る。次の瞬間には唾液が気管に入り、大層噎せた。痛みで失神しそうになるが、泡立つ唾液を見下ろし、ただ笑った。口元は動かなかったが、頭の中では確かに笑っていた。
今シャルルを動かしているのは強烈な恐怖だった。
自分の頭や体の隅々から発せられる危険信号に逆らう決心は、あの夜彼女に逢った時に終わらせている。ただ失う事だけは耐え切れない。それは一斉に男に襲い掛かる恐怖だった。昂る神経を抑え付けているのは、一人の女がまだ息をしているという事実だけで、破滅はすぐそこに在った。
無花果の実の先端に罅割れた口を寄せ、噛み千切らぬように皮を剥ぐ。柔い実を指で軽く潰すと、果肉が裂けて白い汁が手首を伝った。
実を咥えたまま上衣を脱ぐが、腰帯に挟まった部分を引き抜く気力はなかった。上衣を背中に垂らしたまま、無心で脱衣所を抜ける。腕を広げるだけで激痛が走り、息を吸うだけでいちいち引き攣る体は、ほとんどシャルルの意のままにはならなかった。
閉め切っていた浴室の扉を開けると、土の匂いに出迎えられる。
シャルルは浴槽のそばで膝をつき、中に肩を入れ、片手を伸ばした。
指先が沈む程度の浅い水の中に、シャルルのすべてが眠っていた。口に押し込められた土を吐き出させたあと気絶した彼女は、今は青白い顔で眠っている。
変色した水には土が沈み、砂と枝が浮き、後れ毛が漂う。死の臭いが無いだけの棺だった。シャルルは吐き気を催したが、何も吐けなかった。彼女の首の裏に手を差しこみ、灰泥から見つけた貝殻のように頬の汚れを払い、抱き寄せる。
首がくたりと折れ、真上を向いた唇の中に小さな舌が収まっているのが見えた。
シャルルは無花果の割れ目に舌を差しこみ、押し上げながら滴る汁を舌に乗せた。視線を張り付ける先、リーリートは眠り続けている。恐れが広がり―――背後で稲光が破裂した。シャルルの視界は白で染まり、意識の枠を飛び越えていく。
土のにおいが立ちのぼる中で、決して口にしない想いを唇に乗せ、流し込んだ。
湿った吐息がシャルルの中に入り込んできて、自分のものと溶け合っていく。すぐに悪夢が払っても払っても現れ、追い立ててくる。駆けまわる苦悩ごと、雪崩のように彼女の中に注ぐ。心はいつしか灼熱となり、こめかみが熱く脈打った。
シャルルは舌を何度も差しこみ、絡め、女の魂を必死につなぎ止めようとした。そのうちに奥深く押し込めていたものが暴かれ、形をもたない感情に身勝手な色を付けていく。
これは自身の延命に過ぎない行為だと罵倒する事もできずに。
「リリィ……」
縋る小声に、彼女は細く目を開けた。ほんの少しの笑顔を浮かべ、余りに拙く自分の名を呼び返されたので、シャルルは苦い顔で押し黙った。
自分の心の空しさが一粒の涙となってこぼれ落ちる。




