表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

431/526

431 肉料理:レーヴェ・フロムダール(25)

本当の私はいまだ眠り続けている。今思考している私でさえ小室のひとつを埋める理力だ。蜂の巣の最奥に住まう蜂に情感や記憶が伝う。父や兄、邸の人々に愛されて生きる日々、放浪するシルヴェーヌがしばしば世間を耕す姿、幾度も殺される自分、幾度も沈められ、辱められ、切り刻まれる姿を、そして今日二人の男の衝突を見た。


(……忘れるのよ……お父様にまた抱いていただけた。それで充分でしょう)


潮溜まりに居た魚は再び大海に飲み込まれて、嵐の中に飛び込んだ。もうすぐそこまで"彼"はきている。浜辺の足跡はどれも私の方を向いている。いつだって彼は私を求めている。


(ヴァヴェル……貴方の理力を感じる……すぐ近くに……)


私たちはかつてひとつになることを選んだ。互いを愛することを誓い、口づけを交わした。誓いにこめられた感情は確かなものだ。頬をへこませたり、唇を尖らせたりして、笑いあって愛おしいと目で伝えあった。あの時間は真実だった。

ただ今の私にわかることは、もう二度と同じ時は訪れないということだけだ。


お腹を擦る。指を少し押し込むと、体内を締めくくる筋の群生を感じる。

リーリートは表情から愛情をそぎ落とし、海を見つめた。


(…………どうしてこの記憶が選ばれたの? "私"は何を教えようとしているの。希望が続くと頭から信じられなかった私を直視しろと? それとも今更幸せを感じたかった?……違うわね。何か別の理由があるはず、そうでしょう? なにを――警告しているの?)


腕の中の少年はまだ現実から切り離され、私だけに集中し、生命を信じている。

彼が生き延びるにはまずもって希望が必要だった。明日を望む心が未来を無心に引き寄せてくれることは、私の虚しい日々が証明している。

かつて無力で無智な子供がおこなった無謀な前進は、ほころびを艶やかに破った。あの日凍てついた湖を撫でた風をもう二度と感じられなくなる代わりに、お父様やお兄様の元に帰ることができなくなる代わりに、私は身体を開け放った。

汗ばんだ顔をうつむけて、その結果壊れた器ができあがったとして、私は父と兄、邸のみんなを守ることができるなら良いと心の底から思っていた。誰よりも彼らに愛着していたのは私だ。愛さずにいられなかった、例え自分を愛せなくとも彼らの愛に報いる為に。だが、結果はいまの有様だ。

破滅――破滅、破滅。


(この子に私と同じ道を行かせるわけにはいかない……)

「リーリートさん…?」


頭部をぐっと締めつける痛みに、リーリートは耐え切れず顔を覆った。指で圧迫しても効力はない。こめかみを押し込んでも、外へ溢れ出ようとする情感を留めておくことができない。

「大丈夫よ」と、自分にも言い聞かせるように言った。言葉は力になる。だから"大丈夫に"しないといけない。


――どぷん、またどこかで何かが落着した。


リーリートが音の方を向くと、少年は驚いて同じ方向に目を細めた。いかにも困ったような顔をしている。そこにあるのは欠けた海と崩れゆく空だけで、そこに何かが飲み込まれたことに彼は気づくことができない。


リーリートは己を押し退けて、少年の事だけを考えた。

目覚めれば周囲を囲む人々は一瞬で炎の中に少年を放り込むだろう。罪過という焚きつけた炎であぶる為に。

数多の剣先を止められるのは簒奪を良しとはしない父だけだが、大主教としての職位が妨げとなってしまう。父は領民の命を守護する者である前に、教会の教義を守護する者として在らねばならない。ゾアルは殺されなければならないという愚かな教義を教会が許し続ける限り、彼は少年の命を救う事ができない。


ゾアルは何故そこまで忌み嫌われる存在なのか。神の相貌を盗み取ろうとするゾアルを供物として捧げれば、悪魔を退けることになるという根拠を欠いた話が流布され、民衆は心底それらを信じている。

だが悪魔とは一体なんなのだろう。


悪魔、それはいつも誰かが怖れ、口にするのを躊躇うものだ。実際に目にしたものはおらず、だが心の暗示らしいもので「悪魔」という言葉にさえ忌々しさを感じさせる。

ゾアルという贄を無理やりに作り出すことで、自分の怠惰や傲慢さを彼らに押しつけ、ささやかな暮らしが守られる。何故それほどの非道がまかり通ってしまうのか理解できない。だがゾアルだけではない。この世では人の命はとても軽かった。罪人は死罪が多く、教会法や裁判を用いずに私刑が下される場所も多くある。罪人の命を奪う事に罪悪の観念はなく、正しいことを成したとして称賛されている。ゾアルを討つことは正義だと胸を張っていう者の中には女子供もいる。


ではゾアルが本当に罪を犯したというのか。違う。彼らは誰にも迷惑をかけずに生きていた。ましてや神の相貌を盗もうという大きな嘘は今を生きる彼らには何の関係もないことだ。それなのに家畜の扱いをして勝手に命を消費しようというのは私たちの方なのだ。


ヴァンダール郊外森の奥に、集落とは名ばかりの収容所がある。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ