43 泥と合意と、
あの二人が宿舎の二階に所帯を持ってから何節が経っただろうか。そう言うと彼女は決まって「承認料も払っていないし、指輪も無い」と答える。
婚姻は教会の宗教的権威の中で結ばれ、指輪と祝福が付き物だが、都市部を離れれば婚姻の約束を口づけで契るだけで、それ以上の事はおこなわない。時には求愛や性交渉が先立つのは普通の事で、両者の合意さえあれば、その瞬間から二人は夫婦であり、家族となる。
角部屋に住まう二人は確かにその指に何も嵌めてはいなかった。家族と宣言することも、夫婦を自称することもない。けれど例え、真の愛を証明する指輪がなくとも、番のようにいつも寄り添っていた。男の種族を思えば、それがどれ程奇跡的なことかわかるだろう。
それらを偽りと断じ、阻むものがいるとすれば母親の腹の中で賛歌を聞き過ぎたのだ。祝福は独占されるものではなく、この地に住むすべてのゾアルにも与えられるものなのだから。
死体を引きずったといわんばかりの赤黒い汚れは二階の廊下から不自然に始まっていた。廊下は静かで、エレナは汚れから視線を上げ、角部屋に向かう。宿舎の掃除は持ち回りだが、基本的に綺麗好き過ぎるきらいがある皮職人のところの三姉妹がおこなっている。きっとこれを見たら卒倒するだろうから、なるべく当人に片付けて欲しいところだ。
あれほど急かしてきた孫は、腰にしがみついて今にも泣きそうな顔をしていた。父親に似て度胸が無い。うちの男どもはみんなそうだ。
「シャルル帰ってるんだろ、開けな」
応答はなかった。留守ではないだろうが、血が本人のものなら、意識が無いかも知れない。あの二人なら避けられる問題は多いだろうが、その分降りかかる火の粉も多い。渋々と言った様子で見に来たエレナだったが、付き合いはそれなりにあり懸念もあった。
革靴の先端でもう一度扉の下部を蹴る。取っ手にへばりついた泥は乾き始めていたから、いくらか時間は経っているのだろう。
「ちッ」
煙草を柱に押し付ける。
物音はしない。いよいよ中に入るべきか、腰帯につり下げた鍵束を外した。
「さっき中から音がしたんだ、だからいるとおもう…」
「入ってみればよかったじゃないか」
「やだよォ! こんなに血ついてるじゃないか! やだー!」
じたばたと手を上下させる孫の頭を押えてていると、久しく逢わなかった男が顔を出した。
片足分開けられた隙間から濡れた髪が見えたが、男はすぐに扉の裏に消えたてしまった。顔を見せたくないのだろうが、エレナは構わず扉を押し広げた。
しかしシャルルの全身を見たエレナは瞠目し、孫は「うわっ」と短く叫んだ。シャルルの上衣の釦は全て開けられ、糸だけを残し、釦が無い箇所もあった。腰帯にかろうじて挟まった裾は力任せに脱ごうとしたあとだろう。
基本身だしなみを整え、首元まで着込み、平静を崩さない男だったが、今は首から腹まで晒している。全身ずぶ濡れで、泥まみれで、そして何より、傷だらけだった。
無駄に高い背の向こうを覗くと、部屋の中も足跡だらけだったが、靴跡は一つだった。
シャルルは扉に手を掛け、前屈みに寄りかかっていた。張り付いた髪の隙間から滲んだ眼を向けてくる。吐息が熱く、肩は大振りに上下している。エレナは思わず顔を顰めた。
「……あんた……酷いなりだね。返り血かと思ったんだが……あの子は」
「…生きてる」
傷は負っているが―――そう暗に言っている。直接言わなかったのは孫の手前だからだろう。エレナはシャルルの傷だらけの上肢に目を向ける。
何かに強く縛られていたような痕が、腹筋と並行して何本も刻まれている。脇腹は鬱血し、変色した血管が蜘蛛の巣のように広がっていた。これは血液循環が止められたことによる血栓が作り上げたおうとつだ。胸から腹は満遍なく変形し、立っているのもやっとだろう。エレナはその傷痕に見覚えがあり、大凡を察した。
どうしていつも通り立っているのか、そもそもここへ帰ってきたのか、言葉が過った。しかし状況からいえば、これ以上刺激をしない方がいいのだろう。
「ふぅーー……何か必要なものは」
前置きは不要だ。シャルルは口を開くことすら苦痛なのだろう、櫛の歯が欠けたような物言いをした。
「時間が…あればいい……。すまない、床の掃除はする……あとでになるが」
「……馬鹿め。日が落ちるまでは誰も近づかないように言っておく。それまでにその面どうにかしな」
「恩に、着る」
「いらん。ほら、リード帰るよ」
「帰るの?!」
孫の首根っこを掴みあげると、どうも口をもごもごさせて、ぺちぺちと手を叩かれる。
掴んだままシャルルの方につきだすと、血を怖れて人の後ろに隠れていた孫はようやっと言いたい事をいう気になったらしい。
「……シャルルほんとに大丈夫? お姉ちゃんは寝てるの? だいじょうぶ…だよね? ゾアルだもんね…ゾアルは…つよいもんね」
暗く翳った瞳、孫の尻尾はしゅんと萎れて床についてしまった。シャルルはふっと微笑んで見せた。
「……大丈夫、夕食前には二人で顔を出す」
「うん! じゃあ、これ俺が掃除しとく! だからゆっくり休んで!」
これ――とは、散々触るのも嫌だと言っていた泥と血のことだろう。シャルルは普段は断るだろうが、「たすかる」と頷いた。
「大丈夫! このぐらい平気だもん!―――い゛ッ! 叩かないでよ、おばーちゃん!」
大した苦痛じゃない癖に大袈裟な孫を釣り上げる。食堂へ向かって歩いていると、リードはまた項垂れた。「大丈夫かなあ」と呟く。意味もなく肯定してやる気もなく、しつこいと、尾で掴み上げて歩いた。




