429 肉料理:レーヴェ・フロムダール(23)
婦長はみるみる顔を歪め、肩を震わせた。泣いているのかと心配するも、すぐに上げられた顔は一瞬前の泣き顔とは正反対に勇ましい。
「あの、あのね? ごめんなさい。変な事を…言ってしまったわ。不安になる事もあるけれど、うきうきした気持ちも忘れたくないって思っているの。きっとこれからたくさん良い事も待っているだろうから……ね? そうでしょう?」
「当たり前です!」
真っ直ぐな肯定に瞬きを繰り返す。目の奥が熱くなってまともに顔が見られない。気恥ずかしくてバートリを見て、結局床を見た。
「…………今はね、器にゆとりがないの。さっきもね、些細な事で溢れて、我慢しようと思うのに泣いてしまう。みっともなくて抑えようとしても、……そんな自分がいやで仕方ないの。お兄様が泣いているところなんて見たことがないわ。大人は誰も泣かないわ。この邸でこどもなのは私だけ。もっとたくさん修学して読書をして賢くなることができたら、みんなからもらった幸せを返せるようになれる気がするの……時間が、かかってしまうけれど……秘密よ、秘密のお話よ」
前向きな言葉に引っ張られて心が持ち上がる。本当にそう思えてきたのだ。言葉は不思議な力がある。やっぱり不安を煽る言葉は押し殺して良かった、それで良かったのだ。
私は悲しみを慰めてもらいたくもなく、みじめと思っていて欲しかった。それが本当の、そのままの私なのだから。
「お嬢様」と婦長の真剣な声。
バートリはいつもの沈黙だが、婦長の妙な気配に首を傾げる。
「なにかしら」
「今のお気持ちを……どなたかにお話したことはありますか?」
「あるわ」がしゃんと鎧が鳴った。バートリが動いた。(もちろん動くに決まってる。少し慌てているようだ)
「誰か伺っても?……バートリさん以外ですか?」
首を振り、庭のお花に囁いたのと答えるとぐったりと頭を下げて深く胸を撫で下ろした婦長は、私の両手ごと手のひらを合わせた。
「……お嬢様、義務で人を愛することなどできないのです。ここにいる者はみな、色々な愛の形でお嬢様を愛しております」
「わかっているわ」わかりすぎるほど感じている。けれど婦長は瞳を濡らした。
「いいえ、いいえ……どうしたらこの気持ちが伝えきれるのかわかりません。胸を開いて見せたって構いませんのに」
「そうしたらきっと同じものが入っているわね」
「あぁ、お嬢様、お嬢様…………バートリさん、お嬢様はいつも…」
「…いつも? 何かおかしい……?」
「おかしいですよ。そりゃあもう、こんな……」
「へっ」婦長はじっと私を見つめ、それからおそらく彼女にとって言わずにいられなかった気持ちを吐きだした。
「どうか肩の力を抜いて。何も背負わなくていいのです。そんな風に早く大人になろうとなさらないで。先だって大切ですが、貴方様の今だって一度きりですよ……」
私が言うべきことはなかった。「はい」でも「いや」も告げられない。唇は上と下が触れ合ったまま動かせない。彼女にそう言わせてしまったこと自体、私のいびつな在り方が無視できないほどに醜いからなのだ。
微笑んでも相手を傷つけるとわかっていても、そうするしかなかった。
すると視界の端で乾いた光が存在を知らせた。銀の鎧を照り輝かせて、バートリは何も言わず机に寄ると徐に突き匙を取った。何をするか見守っていると、残ったマフを四分の一に切り分けてリーリートに差し出したのだ。目の前に出された匙と彼の顔を見比べるが彼は無言を突き通すので、リーリートはしばし瞳の奥を見つめた。
(やさしい瞳……同じものを見たことがあるわ)
問わずに食せということなのだろう。雛のように口を開くと、甘味が舌に乗った。細かく刻んだ胡桃と苦味のあるタラゴナの葉が生地に練りこまれて、甘いクリームが中和している。少し大人っぽい味がして、甘いため息がでてしまった。
私が嚥下するとようやく離れた視線は、快い冷たさが含まれていた。優しく目を細める家政婦長とはまるきり違う。バートリはまるで朝の朗らかさを裂くように駆ける駿馬だ。
(そうだわ、雄馬みたい。気高くて屈強で、体がかたくって……言葉よりも眼差しでいろいろなことを伝えてくれる。ひたむきに……私を愛していてくれる)
たてがみを揺すぶるように一つに結んだ髪を揺らして彼は元の場所に下がった。
私の口に甘味を押し込んでご満足かしら?――とからかってあげたい気持ちがわいたが、それよりも幸福が勝った。婦長の手を離すとなんだか母の手を離してしまったような気がしたが、甘みが口いっぱいに広がって悲しみや孤独といった余計な気持ちはどこかへいってしまった。
バートリの少し持ち上がった下唇をみると妙な味わいにくすぐられて、また無言で壁際に戻った彼がおかしくって、おびえることなく笑った。
(私はただのリーリート・ロラインでいられた……そうね、バートリ……)
――どぷんと、何かが落下してリーリートは全身を震わせた。音が頭から爪先へと抜けて、擦り合わせた指はとても冷たい。




