421 肉料理:レーヴェ・フロムダール(15)
その頃の私は、アクエレーレで聖女の役目を果たしていたことも、ヴァヴェルとの婚姻も、自分が数千年の時を生きている命であることも知らない。"領主の養女"として純然たる生を過ごしていたのは真っ新な魂だった。
身の内に蓄積された膨大な理力のこと、他者に譲渡するためには死ななければならないこと、そういった過酷な定めについては少なくともロライン領主である父だけが知っていたことだった。だが娘に真実を話す気はなかったのだろう。領地を出るその日までロライン家の一員として教育が施されていた。
考え方、態度、所作、趣味、基礎修学などを朝から夕暮れまでみっちりと詰め込まれ、歳に似合わぬ見識が備わると、教師は大変結構と言って賛辞で満ちた言葉をかける。父や兄、侍女や侍従長も私を優美と称して、華やかな印象をつくりあげようとしていた。実際は庭を駆けて、自分の足でどこまで行けるのか確かめたくて、引き出しの中に計画書という名の敷地見取り図を隠しているような子供だった。
けれど、つい希望を果たしてあげなければと丹念な感じの言葉で喋り、考え深くゆっくりと話すように心がけ、純粋な態度をとった。結局計画書はただの素描になったが、幼い心の中はみんなに喜んでもらいたいという気持ちでいっぱいだった。身の回りの世話をする人々もその仕事のため何にでも称賛を贈るので、何かと敷地外に行ってしまう父や兄の帰りを待つ孤独を慰めてもらっていたのだった。
十年以上の時を邸の中で過ごした。窮屈を感じたことがないとはいえない。
いくら授業で忙しくして、侍女や護衛に囲まれていても、好奇心の高さゆえにいつも外出する機会を窺っていた。けれど父を敬愛していたので、もしも配達の馬車に紛れ込んで密かに外出すれば、父の信頼を裏切ることもわかっていた。
邸に住まう三十人ほどの従者たちはそんな状況を理解し、毎日甘い物を用意し、とくに父が執務室にいる時間は二人で休憩できるようによく手配してくれた。父も予定を変更してでも私を招き入れ、読書や修学の話に耳を傾けてくれた。
実際に修学はとても楽しかった。外部から呼び寄せられる教師の数は次第に増えて、ある日学習室の扉を叩いた父が一言「お前は立派だ」と言って頷いたことがあった。何が起こったかわからず言葉を詰まらせていると、扉の向こうに控えている侍従長が微笑んでいるのが見えた。たえず周囲に気を遣う彼から、私が一通りの円舞を舞えるようになったと聞いたのだろう。元より言葉少なく、威厳のある父はほんの少しだけ息を切らせているように見えた。もしかして急いで来てくれたのだろうか。私にたった一言告げるために。
足が疲れて動かなくなるまで先生を真似て踊った時間が報われた気がした。できなくてもいい、もっと大きくなってからでいいと言う声があったにも関わらず無理を通してしまったから、叱られるかも知れないと憂鬱だった。けれど父は褒めてくれた。
成果を出し続けなければ誰にも見つめてもらえず、消えてしまうのではないかという恐怖がいつも心の中にあった。父の一言がどれほど嬉しく大切なものであったか言葉にできない。私は感動しながらも裾を軽く持ち上げて礼を返した。涙を抑えることも怠らなかった。歳相応に両腕を広げて抱きついてしまいたかったけれど、できなかった。
父の言葉ほど絶対的なものはない。俄かに全身を取り巻いていた孤独は濃縮されて、私の中で形を変えて激しく動いていた。父の言葉で大きく渦を巻いた孤独は、称賛にとけて四隅に追いやられた。放って置くとまた膨れ上がっていくのだが、気が鬱すと父や兄が必ず見通して相手をしてくれた。心の動きを読み取る術は愛の中に育まれるものなのだと知る。私はそうした"目に見える愛情"を向けてもらえることがとびきり嬉しかった。
時折ふと苦しくなって、笑顔を捨てる時がある。そういう時はこれからを想像した。今は領地から出られないけれど、いつかは兄たちのように大きな学び舎で歳の近い子たちと出逢うこともあるのだろうか。背が伸びてロライン家の馬車から降りる自分を思い浮かべる。せっかく覚えた円舞を披露する機会はあるだろうか。誰かの手をとって愛を捧げる……本の中の恋物語のように。
(恋をしていたわ。いろいろなものが手の届かない場所にあって、得る事で幸せを実感しなければならなかった。修学を励んでいたのはそうした渇望のせいね……)




