415 肉料理:レーヴェ・フロムダール(9)
心から憎まずにいられないのは、青年が彼女に対して敬意を示していることだった。顔を近づけても決して唇を合わせず、願うままに指先を触れあわせても決してねだらない。欲望を感じさせない誠実さがいかにも気に障るのだ。
この世で最も美しい女に対して、無害を演じて―――自分の奥の奥を掘り起こされるのを待っているのだ。ぎらぎらとむき出しになってねだる方が余程健全で、男の生き様その通りである。それを隠そうとも、酩酊感を催す湿った空気にまじって盛大に臭うのだ。
顔を見合わせ、互いの前髪を掻き分けてすり合わせる額、上目遣い、声色の濃淡で互いの名前を呼び分ける……そのどこにも肉欲がないのではない、欺瞞なのだ。
青年は燃え盛る執着をこれ以上深めぬように抑えている。そのことが隔たり立つこちらにも吐き気を催すほどに伝わって、黙殺しようにも呪詛がまろびでる。何故今すぐに殺さないのかと激しく耳に聴こえてくる。――わかっている。だが彼女は望んでいない……そう自分に言い聞かせて耐え忍ぶ。波音に己の歯ぎしりが被さった。辺りには好いた女を貫きたい衝動が青みわたっていた。
これほどまでの卑俗な裏切りを目の当たりにすると怒りが増大するも、奇妙なことに積み重なった情感は端からするりとほどけていった。こうした光景を見せつけられるとは思いもよらなかったが、初めてでもなかったからだ。陰鬱な気持ちはある、屈辱も、けれども悲しみが上回る。正直にいえば今ほど彼女を殺したいと思ったことはなかった。それでも打ちのめされてもなお立っている。奇妙だった。心は割れ、非難する格好の材料を得たことを喜べばいいのか裏切りを恨めばいいのかわからない。彼女の顔を反問するように見つめ続ける。
(リリィ……リリィ、君が願うのは夫婦関係の完全な転覆だろうか。君に殉じて死ねもしない男にまた新しい責苦を用意して、完全に破綻していると知らしめたいのか。だが困るのは君だぞ。兄弟をたぶらかし、衛士を虜にし、そしてまた引け目を見せる子供の気持ちを掻きたてて、そんなにもあどけなく……)
花のような笑顔が男に向けられている。胎の中で考えていた――今すぐにあの子供の場所に成りかわったとして、彼女は同じように笑ってくれるだろうか。誰でもいいといいというのなら、何故私ではだめなのか。
(笑っていても本心は何ら感性と密着していない。そのぐらいわかるさ。目の前の子供は君の繊細な機微はわからないだろう。肌に吸いついて愛を滴り落としたとしても、片隅にある罪悪は消せない。当然だな? 私でさえ君を悲劇の人だと思っている。どれだけ好きな物を並べているつもりでも、結局侍っているのは二流三流ばかり……塵を集めても空しいだけと何故学習しない。そこが君の甘いところだ。愛と塵をくくりつけても出来上がるのは君の力だけを求める者たちだ……リリィ、結局奪われてしまう定めのひとよ。忘れてくれるな。君を殺すのは私の役目だ。存在を肯定し、君が自分というものに対して生理的な嫌悪をもっていることも理解している。君が願うものをすべて持っているのは私だけなのだ。だから……君が誰と寝ようと誰に戯言を囁こうと私の均衡は揺らがないよ。君を愛していることが私の強みなのだから……)
彼女は私の物で、私は彼女の物だった。数千年前に契ったことであっても、永劫破れぬ誓いだ。ああしてありきたりな方法で交わされる贋物の愛で塗りつぶされるものではない。
彼女はとても優しく、長い接吻をするのに数多くの手順を踏ませるような初心で、愛らしい、心底本物の女だった。人の心の在り処をはっきりと見抜いて甘やかすけれど、自分の在り処はぼかして、隙間に弱みをちらと見せる。
それがたまらなく心をくすぐり、男は無力になってしまう。ちらつかされた傷を暴くことに必死になり、俯く彼女の唇に釘付けになる。
いままさに世にも美しい女が潤いを含んだ瞳を男に向けたあと、男の指を口へもっていって食んだ。甘い痺れが首筋に走り、青年は真っ赤な顔を背ける。笑みをこぼして、彼女はまた青年を抱きしめた。始終を見守っている私の心は微塵と砕けてしまって使い物にならなくなるが、彼女を愛しているなら回避することのできない瞬間だった。
(なんて………惨めなことだろう)
そして男は目が覚めた。
波の音が静かに降る海から帰還した精神はにわかに変調をきたし、寝台の上で目覚めた男の目尻からは大粒の涙が流れた。口の中で「うぅ」と小さな唸りが漏れるも、顔をおかす雫を強引に拭って誤魔化した。
拳を叩きつけ、敷き布を掴むと肘を支点に重い体を起こした。片腕がない状況では左右のつりあいが取れず、起き上がる動作さえ重心を理解しなければならなかった。
(知っていたさ……)
独白は自分を傷つけるだけだとしても考えずにはいられない。孤独に折り合いをつけるには思考するしかないのだ。




