413 肉料理:レーヴェ・フロムダール(7)
体から不思議な力が湧いてくる。心と心が触れあったという実感がついてまわって、今ほどありのままに笑ったことはなかった。
崩れゆく青空の沈黙の中で手を取りあう。二人だけに通じる話をしながら目を合わせ、誰憚らぬ浜辺を歩く。
背後に迫る真っ白い空間を、予感に満ちた気持ちで待っていた。あれに飲まれれば元の場所に戻るのだろう。レーヴェはいつの間にか彼女を見ず、海を眺めていた。風があらゆる方角に広がっていく。始まりと終わりを告げた苦しい場所に、今は澄んだ気持ちで立つことができていた。
「…………貴方のこと守ってみせるわ」
遥か彼方の島影から視線をうつすと、彼女は喋ろうとするレーヴェを押し留めて、視線を逸らした。
白い裾が揺れて、素足や腕の形を描いている。とても細く、彼女の方が庇護の徽章そのものであると思うが、それを口にすることは彼女の在りようを否定しているような気がした。
背筋を伸ばして佇む姿は気高く、降り注ぐ陽の光をうける髪は自分の影を知らずに輝いている。本当は誰の目もなく、暗い木陰を走り抜けて、明かりの下で息をめいっぱい吸うべき人なのだ。素足を挿しいれる草生には水が張り、苔むして、水中花がありありと姿を現する。風が彼女を呼び、鳥の声が世界に溶けていく。そうした光景が誰より相応しいように思う。
彼女は自らを消え去る定めなのだといったが、情念を胸にしまって死ぬのと、吐きだして死ぬのとでは比較にならないほど格段の差がある。
むろん一呼吸でも多く生きて欲しいが、秘めた思いを吐き出させるには言葉も時間も足りない。また一度の逢瀬でどうなるものでもないのだ。
レーヴェは理解していた。自分の言い分が認められたわけではなく、気前のよい彼女が一時忠実なふりをして、あたかもレーヴェの言葉で自分の行動を決める決意をしたとみせかけているだけだということを。
ヴァンダール大主教や龍下の態度から、命をないがしろにされてきたことがわかる。長年忠実に命を捧げてきた彼女が、唐突にやってきた幻の中で出逢った子供の言葉で自身に懐疑を向けることはできないだろう。抵抗する意思があれば、あれほどの理力を持ったまま死を正当化する理論を許すはずがないのだから。
彼女を縛り付ける意識、命を軽く見積もるものたち、死を飽かず抱いてしまうこの人自身―――何から変えていくべきなのか。変えようとすることさえ烏滸がましいことだろうか…
(幸せになってほしい……願ってはいけないのかな…)
レーヴェは彼女の名を呼びかけようとして、ただ俯いた。それができぬ自分を苦々しく思う。
自らの定めをいくら受け入れようとも、目覚めたレーヴェを待つのは絶望の淵だ。バティストンやシャルルの目が忌々しい物を見る目に変わってしまったら、きっと心が引き裂かれるような気持ちになる。今からでも覚悟をしておくべきなのだ…
「種が誕生して数千年、今日でさえゾアルと区分けされた人たちは生きながらにして最も劣悪な差別を受けている。その愚かな認識を義務づけているのは教会と聖典よ。ゾアルは神から容姿を盗み、聖性を害しているとして、災いの源だと教えている。かつては皆ひとつの命だった――太陽であるとみなされていた時代に民族の分裂が起こり、迎合の為に共通の供犠が必要だと考える者がいた。ゾアルへの迫害は必然であると思わせて、自分たちのお腹を満たそうとしたの。そうした人道に外れた発想が発端となって構成された社会が今よ……ヴァンダールでは大主教がはっきりとゾアルの住居を指定し、許可や命令を下していない時に範囲外に出ればひどい拷問を受けている。細々と森の奥で暮らす彼らは自分たちに関わると衰運を辿るといって救助すら拒んでしまう……」
「交流があるのですか…?」
「あった時期もあるわ。各地の集落を訪れるには制約があって、直接影響を及ぼすことは……私の体は、………………」
長い沈黙。私はしばらくの間、彼女の葛藤を見つめていた。言葉を浮かべ、選ぶ。選ぶものの、きゅっと唇を噛みしめる。想いを形容する為の抵抗が瞳の中に飛び交っていた。
何が彼女を縛るのだろう。思い描くことを素直に口に出せないのは何故なのか。龍下、あるいはヴァンダール大主教、もっと他の意思が彼女を侵している――彼女は刹那の勇気を嚥下し、白い指先を胸にそえた。それは胸奥に漂う毒を内内で処理する自傷的な行為に見えた。健気だが、かえって痛々しく強調されもする。
もしも"制約"が肉体に透けてみえるのなら、今すぐに彼女を抱いて聖性ごと噛み砕いてみせるのに痛みは透明だった―――レーヴェは「制約」と舌に乗せて、拳を握る。
「やめましょう……何を言っても私は罪を犯した。貴方に酷な真実を告げた。命をつなぎ、同時に属する暗闇に押し込めもした。その責任を取らなければならないわね」
「……そうしたいと思うなら。でも罪とはどういう意味ですか」




