412 肉料理:レーヴェ・フロムダール(6)
「自分を傷つけられることを許してしまう貴方を、肯定することはできません」
「レーヴェ……何を望んでいるの? 私は貴方の為に生きることはできないし、貴方も私を見るべきではない。いま思い描いていることを口にするのはよして……」
「別に私は貴方を漠然と幸せにしたいとか、未解明な難題に答えようというわけではありませんよ。確かに……そう言ってしまいたい気持ちはあります。少し前の私なら大人たちが貴方にした蛮行を感情で否定したでしょう。簡単な提案が貴方にとって最も有効ではないことは理解しています。でも貴方は私にゾアルであることを受け入れるように言った。それは貴方が"死"を受け入れることによって、自身の均衡を保ったからでしょう? 私を助け、自分の身を犠牲にしても他者の為に尽くすのに、自分の事は助けようとしないなんておかしいです。それは実体を無視しているということでしょう? 貴方の心と体は一致していないのです……」
瞳を揺らし、半ば動揺している。彼女は指先で唇をなぞり、中央の一番柔い場所に爪を少し押しあて問いかけに応えた。
「……違うとは言えないわ。貴方の心と体が境界を失っていると気づいたのは同じ状況に置かれたことがあったからよ。そうね……一致していないわ」
「境界を保つべきです。貴方にだってできるはずだ」
「……」
「酷い事を言っている自覚はありますが続けます、今の貴方は活力を喪失している。私を救ってくれた時の方がよほど強引で気高く在りました」
わざと神経を逆撫でるようなことを言ったのに、彼女は怒りの感情を見せなかった。思考を明晰に保っていられるのは、そうした感情より更に大きなもので心が満たされているからだろう。まだ届いていない。心のほんの片隅にも……
「………貴方の言葉は正しい分析だと思うわ。私の否定は悲哀を源にしている。でもそれを知ってどうなるというの? 私は救済を求めていないのよ……私の中に入ってこないでいいの」
「……私の願望を破り捨ててもいいです。そうすることしかできない悲哀を譲ってほしいんです」
「……譲る? 気持ちを明け渡して欲しいの? わからないわ」
「悲哀を除いたら、空いた場所に愛を注ぐことができると思いませんか」
「……貴方を愛せと?」
「いいえ。誰よりも、大切な人をです」
レーヴェは心底自分の人生を恨んだことはない。口に出せない事も散々されたが、そのことでも心は壊れなかった。風呂屋では心を喪失して、話しも笑いもしなくなる病人を幾人も見た。心を器に見立てたとして、自分と彼女(そして彼ら)との違いはなんであるのか考えると、持って生まれた器の大きさや深さに差異があるのだと思っていた。だがそうではないのだ。
レーヴェの持つ"苦しみの中にも幸福を見出すことのできる楽観"は鈍感だと周囲は下げて言うが、それこそ生きる上で最も機能的な能力なのだ。心を調節できるレーヴェだからこそ、体は律儀に忠実でいてくれる。でなければとっくに海に身を投げている。
「そうか、貴方も調節が上手いんだ……それどころか鈍感で、要領が良すぎる」
「なにを」と、唖然として小さく口が開かれた。もつれる舌が少し顔を覗かせる。
「私達は定めを受け入れる代わりに、愛をどこかへやってしまうようです。生きる上で一番大事なことは理力でも種族でもありません。なんだと思いますか?」
「………理性かしら」
「貴方らしい答えですね。私もそう思います。神様が私たち"人"に罪を科し、差をつけ、顔や身体に異なる表現を示して設計したのだとして、やはり頂点にあるのは情感、心なのだと思うのです。意識があるがゆえに、他の獣とは一線を画すのが"人"でしょう?」
「……貴方は……確かに海辺にいた彼ね。そっくり……」
今度はレーヴェが首を傾げた。彼女がようやくぎこちなく動きが鈍り始めたのを目にする。心と体が食い違いに気づいて、なんとか一つになろうとしている。それは一部が欠けた積み木を合わせて一つの形容に戻す赤子の道具を連想させた。彼女はまさに自分の形を合わせようとしていた。
「貴方は……自分を愛しなさいと、そういうのね」
「やり方を教えてあげましょうか」
ふっ、と小さく吹きだして笑われる。一語で百を推し測った彼女の心は順調に機能していた。
「体や種族を作ったのは神様ですが、心は貴方のものです。ね?」
美しい人は黙って、ゆっくりと頷いた。両頬にのる豊かな微笑には少し呆れたような疲労が乗っている。子供の言い分に根負けして、とうとうもろ手をあげた彼女は幼く、「もう」と唇を尖らせて清純な抗議をした。




