411 肉料理:レーヴェ・フロムダール(5)
「海辺に立つ小さな貴方、たくさんの寝台が並ぶ部屋で静かに泣く貴方、綺麗な服に慣れずにその辺りに雑に放り出して怒られている貴方、これは港ね。ふふ」
「お、お恥ずかしい……何か言っていますか?」
「言葉は。でも笑顔よ。みんな晴れやかな顔で貴方をみつめている」
「元より偽りだらけでしたから」
「それでも気持ちが一致したわ」
「本当の事をひとつ取り戻しただけですよ」
「とても難しいことだわ……」
私には見えない物をみる時、彼女はそっと持ち上げて遠くの海をみる。それはどう見ても、歩き始めたばかりの幼子に向けるような輝いたり溶けたりする目だった。
「……貴方の気持ちはどちらに向いていますか」
折から運ばれた海風が髪を乱した。
レーヴェは自分の言葉がバティストンが放つような冷淡な商人らしい口調にならないように気をつけたつもりだ。けれど触れあう指先に拒絶が満ちるのを感じて、その気遣いが失敗したことを知る。
事細かな打ち上げ話も隅に追いやり、彼女の苦悩に入り込もうと試みるが、自分に痛みを知る権利があるかは定かではない。彼女がそれを許すかも。もっと経験があれば、陰鬱な話もゆだねる程に安心させることができたのだろうか。年齢以上の多くのものが二人の間に堆積している気がした。
それでも二人だけの世界で、自分の為に存在してくれる人を前にすれば不安など片端から蒸発してしまう。レーヴェを愚か者にするのは恩人への愛情だった。
(貴方は私の代わりに勇気に抱きついて汚れ役を演じてくれた。嬉しい……ありがとうと…その言葉だけでは足りない。でも何をすればいい?……何ができる)
物事には始まりと終わりがあるものだ。怒りもしばらくすれば収まり、悲しみも時が洗い流してくれる。街路樹の緑の葉は枯れて、暖かい風とともに新しい芽を育て始める。
そして狂気すらも、正気に戻る時がやってくる。
彼女の拒絶に合わせて世界は端から崩れ始めた。硝子が割れるように粉々になった青空が風に流れていく。だけどまだ心の中にしっくりと納得できないものがあるのだ。勝手な想いがレーヴェを突き動かしている。
「外にいる貴方と、今ここにいる貴方は姿形が異なります。貴方は彼女の記憶ですか? 貴方はどうして……」
「……殺される為に生きているのか?」
たじろいで目を見開くレーヴェに微笑む顔は諦めが培うものだった。
踏み込んだたった一足で、それがまだ彼女の苦悩のかすかな一端に過ぎないことを認知する。自分はいかに子供であるかも。
「そのように……生まれたの。理力を人の役に立てるように。それは私が女に生まれたことと同じように定められたことだわ」
「………ゾアルに生まれた私は虐げられる定めにあると思いますか」
「いいえ」
「ならば、天性の不幸に身を捧げ尽くす必要だってないと思えませんか」
「…………」
緊張は高みに達した。良い事を、いや、真実を告げている自信はあった。けれど高まりに達したものはいずれ崩れゆく。物事に始まりと終わりがあるように。
彼女は首を振って身を引いた。熱を失った手はそのまま荒廃したように冷たくなる。
「天性の不幸……そんな風にくくってしまわないで。私はたとえ濁流の中にあっても、石を積み上げて水を堰き止めようとした。抗っても抗っても、その都度崩れ去ったのよ……自分にとって死がなんであるか考えて、私を永遠に消し去ることのできない道理だと気づいた。この世の道理から私だけが枠の外にあるのだと理解するまで長い時を費やした。その年節は私を引き裂くには充分だった」
「……………だから、納得しているというのですか」
「私はね、花であって、水や雲であるのよ。雲がいつか溶けていくように、水の一滴が大河となるように、私はどんな場所にも存在して、流れ去る定めにあるの」
「そんな顔をしていうことですか……」
「あら、笑っているわ。笑っていられるようになったのよ」
この人はどのくらいの年節を悲しみの中で過ごしていたのだろう――。
恐怖の為に毛が逆立ったり、怒りの余り拳を床に叩きつけるといった表現が激しい情感を処理する機能だとすると、彼女はもう長い間機能を一掃してしまったのだ。
悲しみの海に浸りながら、喜びの砂をすくい上げては指の隙間から取りこぼしていくような、あらかじめ形づくられた世界の中に生きている。皮肉にも膨大な理力をもつ、より完璧な人であるはずの彼女がもっとも不適合な生き様を選んでいることが悲しくてならない。
距離を置いた態度は硝子のように硬質で、表面に様々な笑顔を描いた。諦観の笑み、物寂しい笑み、喪失、虚無。それらの笑顔はどれも欠けている。彼女の底には何か説明し難いもどかしさがあるような気がしてならない。




