410 肉料理:レーヴェ・フロムダール(4)
彼女にはいろいろな話を聞いてもらった。生まれた村の話から、父の結婚指輪がなくなった時の大騒動、浜にうちあげられた海獣を村民で押し返した話もした。
とにかく喉が渇いても彼女と愛しい記憶を交互に凝視し続ける。なんでも受け止めてくれる笑みが嬉しくて、同時にとても照れくさかった。じっとしていられない手があちこちに移動して、具合の良い場所を探している内に人生で一番幸せだった時代の事を話し終えた。
浜辺で連れ去られたあとのこと、特に風呂屋での話は口にしようとしたが真っ先に浮かんだ事柄は言えない事ばかりだ。記憶はますます研ぎ澄まされて、思い出したくないことまで綿密にたぐり寄せた。寝台の上で起きた話は奥底に封じて、幸福と陽気そして少しの愚かさが渾然した話を選んだ。
女性ばかりの大部屋は寒く、レーヴェが入るまで何年もまともな清掃がされていなかった。けれど彼女達が居座っている鏡の前だけは、煌びやかな香水の瓶や化粧品が並び、まばゆくもあった。彼女達は驚くことに使った物を元の場所に戻さない。何か言われると一言目には相手を否定する強烈な言葉が飛び出る。その必殺力は男を遥かに凌駕する。部屋の隅には洗濯待ちの服が山積みになっているが、みんな自分の仕事と休息にかかりきりですべては後手に回っていた。のちにフロムダール商会の港湾事務所に通うようになると男所帯でも似たような状況を垣間見た。要するに男女ともに疲労しすぎて、生きる気力を奪われていたのだ。
だが都合のいいことに、動き回って清掃する楽しさを知っていたレーヴェにはわりあい楽な仕事となった。巡りあいなのかも知れない。欠けた場所に自分がすっぽりと嵌まった感覚。"ここにいてもいいんだ"と言われているようで体を動かしている間は孤独の慰めになった。汚れたものを見ても綺麗にする嬉しさを見出してしまうのは、文句ひとつ言わずに家事をする両親の背中をみていたおかげだったのだろう。
大部屋の同居人たちは子供の存在に険悪で、ぶつかっては小言まじりの舌打ちをされたものだが、使い物になるとわかると洗濯を頼んできたり、淹れたての紅茶をふるまってくれることもあった。それまで温かい飲み物にありつけたことはなかったから、母様がつくってくれた牛乳入り紅茶を思い出して大泣きをしたことを覚えている。
彼女達はヒーヒーうるさいんだと腹を立て始めて、威嚇するように何度も頭を小突き、髪を掴み、黙れと大声をあげた。しまいにはその辺に放りだされていた肌着で顔をぐちゃぐちゃに拭われた。もちろん初めてだった、女性の下着を握りしめたのは。
風呂屋で起きた様々なことにより、他人の中で生きる術を学んだ。聞こえは良いが、多数の中で生きることは難しい。その経験は自分の中に積み重なって今に生きている、はずだ。根付いていた恨みや悲しみは、とうに決着がついた事だったから、口にするのは笑える話だけで済んだ。あの場で身についた特技はもう一つあるがそれも言わなかった。それはどこでも眠れるようになったことだ。誰かの話し声や嬌声が聴こえても眠ることができる。散々蹴られたあとに閉じ込められた冷たい浴室の床でさえ眠る事が出来た。
「あは、……ごめんなさい。こんなのはまるで、私の存在証明書みたいだ。港では貨物の到着を記録する書類をつける決まりがあって、私は港湾で荷の取り扱いをしていたんです。検分して、父が判を押して……ごめんなさい、つまらない話ばかり。ふふ……あは、っ おかしいな……なんで泣きそうになるんだろう」
いつも卓の端にひっそり座って、バティストンからの質問に短く答えるように癖付いていた自分が、しじゅう長ったらしい訳の分からない話をしていた。
どろどろとした情感はどこかへ消え失せたのか、浸りすぎて身動きが取れないだけなのかも知れない。満足に順序付けた話をするでもなく、小雨のように何時間も喋ったように思う。実際のところここはいつまでも晴天で時は流れていない。
彼女の細い手が私の拳を包んだ。促されるままに手のひらを開いてみると、おびただしい汗を握っている。私は不幸の発作が起きていたことに気づかなかった。幸せを語る時に起きる動悸や口の渇きを無視して、壊れたように話していることを彼女は見抜いているようだった。
数時間で起こったことを処理し切れず、神経が衰弱しているのだと彼女は遠回しにそのようなことを言った。今度は硬直した口元を指ですくい上げ、広げる。ぐにゃと不格好に開いた口から「あ、あや」と声を出すと、耳にひっかかる甘い声が降ってくる。
わざと言ったのだ。彼女が笑ってくれるなら、どんなことがあっても不幸に屈しないだろう。
「いろんな貴方が見えるわ。理力が貴方の記憶を連れてきてくれる」
「どんなものが見えるのですか?」




